光のもとでⅡ+
Side 翠葉 01話
朝七時を目前に出かける間際、
「リィ、自撮り棒を使うときは?」
「スマホのブルートゥースをONにする!」
「正解! じゃ、しっかり司っちのスーツ姿、写真に収めてきてね!」
「了解!」
そんな会話とともに軽快な足取りで玄関を出る。近くのエレベーターを呼んで一階へ下りると、逸る気持ちを抑えながらエントランスへ続く通路を歩いた。
今日がツカサの誕生日というだけでそわそわするのに、さらには大学の入学式で、今日のツカサはスーツ姿なのだ。
こんな日にそわそわしなかったら、いったいいつそわそわするというのか。
ツカサのスーツ姿を見たことがないわけじゃない。
湊先生の結婚式でプラネットパレスへ行ったときにもスーツ姿は見ているし、先月婚約した際にだって見ている。
それでも、日常的に見られる姿ではないことから、特別感は高い。
大学の入学式といったら、就職活動にも使えるスーツというのが定番らしいけれど、ツカサはいったい何色のスーツを着ているだろう……?
黒でも濃紺でも間違いなく似合う。そう思いながら、そっと廊下からエントランスへ顔を覗かせる。と、黒に限りなく近いチャコールグレーのスーツに身を包んだツカサが立っていた。
ツカサの足の長さや腕の長さ、さらには肩幅や胸の厚みぴったりのそれは、間違いなくオーダーメイドだろう。
スーツの中に締めているネクタイは淡い藤色の生地で、それぞれ織り方を変えることでレジメンタル柄に見せている。
そして、ツカサの傍らには二メートルを越す細長いもの――弓を携えていた。
……格好いい。
ツカサは私を視認すると数歩で私の目の前に立ち、
「翠、スマホ見せて」
この、出会い頭にスマホを要求されるの、どうにかならないものか……。
そうは思うも、一昨日から発熱していることを気にかけての行動と思えば異を唱えることはできず、私はポシェットからスマホを取り出しツカサに手渡した。
「今日は最初にお誕生日おめでとうを言いたかったのに……」
今年もお誕生日前夜に電話をしてカウントダウンをしたかったのに、昨夜はツカサに十時就寝を言い渡され、お誕生日のカウントダウンはできなかったのだ。
それに、今が「朝」ということを加味するならば、「おはよう」だって言いたかったし、スーツが似合うことや、弓を持つ姿が様になっていることだって伝えたかった。でも、じっとスマホを見ているツカサは、「そんなのはあとでいい」と取り合ってはくれない。
「体調は?」
「だるいとかそういうのはないから大丈夫。たぶんあと数日もしたら下るんじゃないかな?」
私は言いたかったあれこれを諦めて、コンシェルジュに声をかけながらエントランスを横切り始めた。
そんな私の背後で、
「今日は始業式とホームルームが終わったら明日の入学式の準備か……」
「ツカサ、そんなに心配しなくても大丈夫。私、体調悪くないよ?」
振り返ってそう伝えるも、ツカサの表情は浮かない。思案顔のままだ。
「もうっ、そんな顔してるとほっぺたつねっちゃうよ?」
私はかばんを持っていない右手でツカサの左頬をつねると、軽く外側に引っ張って見せた。
「入学式は列から外れて後方で座らせてもらうし、入学式準備に関しても問題はない。力仕事の椅子出しは男子がしてくれる。女子は入学のしおりに添える冊子作り。午後過ぎには終わる。帰宅したらツカサと合流だけど、それだってお誕生日をお祝いするだけ。今年は七倉さんにケーキをお願いしちゃったから、私はお好み焼きを作るだけよ?」
ね? 問題ないでしょう? 問題ないよね?
笑顔で返答を求めると、ツカサは難しい顔をしたまま頷いた。
この時期の気候はとても清々しい。
朝の空気はまだ少し冷たくて、太陽が昇ると優しい陽射しが降り注ぎ、穏やかなあたたかさに身を包まれる。
そんな日は芝生の上に寝転んで、日向ぼっこをしたくなる。
「春らしい陽気ね?」
「あぁ……」
ツカサはまだ私の体調を心配しているのか、表情が曇ったまま。
この心配性はどうにかならないものか……。
これではまるで二年前の蒼兄のようだ。
こんなとき、話の主導権をツカサに渡すと、またバイタル転送アプリを自分のスマホにも――という話になってしまう。
そこで私は先手を打つことにした。
「桜って難しいお花よね? 卒業式には間に合わなくて、始業式では盛りを過ぎたところ。あと一週間もしたら散っちゃう。それでも、入学式にはかろうじてお花がついてるからまだいいのかなぁ……。花散らしの雨が降らないといいのだけど」
そんなことを口にしてはみたけれど、週間予報では雨の「あ」の字も見られない。入学式の明日は晴れの予報だし、それからの一週間も一番高くて降水確率は十パーセントがいいところ。
だからたぶん、この桜たちはあと一週間ほどならもつだろう。
その間に、桃華さんや飛鳥ちゃん、海斗くんに佐野くん。仲のいい友達を誘って桜香苑でお弁当を食べたい。
制服を着て訪れられるのは今年が最後だから。
この美しい桜たちと一緒に過ごす時間を、いつでも思い出せるように写真に収めておきたい。
そんなことを考えていると、
「翠……」
とても神妙な声が聞こえてきた。
「もう一度俺のスマホに――」
言葉半ばで私は異を唱える。
「今ですらこんなに心配性なのよ? 遠隔で数値がわかった暁には、少し血圧や脈拍が上下するだけで連絡きちゃいそう」
軽く笑みを添えてツカサを追い越すと、冗談として流されたと思ったのか、ツカサにぐいと腕を掴まれ引き寄せられた。
「状態がわからないから心配なわけで――」
ツカサの顔は真剣そのもの。
だからだめなのだ……。
「数値を知っても心配するでしょう? 今のツカサは二年前の蒼兄みたい」
図星だったのか、ツカサはとても気まずそうに顔を逸らした。
これは仕方がないことなのかな……。
友達もツカサも、私の身体のことを知れば知るほどに、どんなときでも心配が先に立つ。
中学では考えられなかったことだけど、これが普通でも少し困る。
「もっと普通に接してほしいのに」と思うことはどれほど贅沢なことなのか――
でももし私が健康優良児で、ツカサが私のような体質だったら同等の心配をしてしまいそうだし、同じことを口にしてしまいそうだ。
それでも私は、もっと普通の会話を楽しみたい。たとえば――
「ツカサ、知ってる?」
「え?」
「桜はね、咲き始めのころは中心が黄色いの。花が終わるころになると、花の中央が赤くなって、ピンク味の強いお花に見えるのよ? 私、咲き始めの桜も好きだけど、もうそろそろ散ってしまうっていうときの、この赤味の増した艶っぽい桜が大好き」
頭上に垂れ下がる枝に手を伸ばすと、カシャ――
聞き覚えのある音に振り返ると、ツカサがスマホのカメラを私に向けていた。
「あ……撮られた」
ツカサはディスプレイをまじまじと見たまま、
「よく撮れてると思う。見る?」
そう言って差し出されたスマホを見ると、ほのかに微笑んだ表情で桜に触れる自分が写っていた。
「わぁ……自然な表情で写ってる。ちょっと嬉しいかも……」
こんなふうに写る写真は、久先輩が撮ってくれた写真以外には一枚もないだろう。
「あとで画像送る」
「ありがとう。ね、どうせならふたりで写らない?」
「桜をバックに?」
「そう。今日はツカサがスーツだし、大学の入学式だし、お誕生日だし」
全部詰め込んで「特別な日だから」を強調する。そして、先日入手した新兵器をかばんから取り出す。
「じゃんっ! 自撮り棒!」
ツカサは不思議そうな顔で、
「ジドリボウ?」
「自分を撮る棒、で自撮り棒。先日、カメラのリモコンを買うのと一緒に買っていたの。これがあったら一眼レフと三脚がなくても一緒に写真が撮れるでしょう?」
別にこの棒がなくてもふたりの写真は撮れる。でもその場合、背景は皆無。ふたりの顔がどアップで写るだけで、どんな場所で撮ったのかまでは写真に写しこめないのだ。
私は自分のスマホを手早くセッティングすると、
「シャッターボタンは?」
新しいものに興味を持ったらしいツカサにたずねられる。
「これ」
私はスティックに装着してある取り外し可能なリモコンを指差した。
「これね、リモコンになっていて、取り外しも可能なのだけど、スマホとはブルートゥースを介した無線シャッターになっているの」
「へぇ……」
よし、ひとまず話は逸らせたし、今はツカサも自撮り棒に興味を持ってくれている。
私はそそくさと写真を撮るアングルを決めることにした。
ふたりが入るのはもちろんのこと、きちんとバックに桜も入れたい。
「撮るとしたらこのアングルかな……? あ、でも弓が見切れちゃうね?」
「いや、弓は全部入れる必用ないだろ?」
「そっか……」
私たちは満開の桜をバックに、新年度初の写真を撮った。
「リィ、自撮り棒を使うときは?」
「スマホのブルートゥースをONにする!」
「正解! じゃ、しっかり司っちのスーツ姿、写真に収めてきてね!」
「了解!」
そんな会話とともに軽快な足取りで玄関を出る。近くのエレベーターを呼んで一階へ下りると、逸る気持ちを抑えながらエントランスへ続く通路を歩いた。
今日がツカサの誕生日というだけでそわそわするのに、さらには大学の入学式で、今日のツカサはスーツ姿なのだ。
こんな日にそわそわしなかったら、いったいいつそわそわするというのか。
ツカサのスーツ姿を見たことがないわけじゃない。
湊先生の結婚式でプラネットパレスへ行ったときにもスーツ姿は見ているし、先月婚約した際にだって見ている。
それでも、日常的に見られる姿ではないことから、特別感は高い。
大学の入学式といったら、就職活動にも使えるスーツというのが定番らしいけれど、ツカサはいったい何色のスーツを着ているだろう……?
黒でも濃紺でも間違いなく似合う。そう思いながら、そっと廊下からエントランスへ顔を覗かせる。と、黒に限りなく近いチャコールグレーのスーツに身を包んだツカサが立っていた。
ツカサの足の長さや腕の長さ、さらには肩幅や胸の厚みぴったりのそれは、間違いなくオーダーメイドだろう。
スーツの中に締めているネクタイは淡い藤色の生地で、それぞれ織り方を変えることでレジメンタル柄に見せている。
そして、ツカサの傍らには二メートルを越す細長いもの――弓を携えていた。
……格好いい。
ツカサは私を視認すると数歩で私の目の前に立ち、
「翠、スマホ見せて」
この、出会い頭にスマホを要求されるの、どうにかならないものか……。
そうは思うも、一昨日から発熱していることを気にかけての行動と思えば異を唱えることはできず、私はポシェットからスマホを取り出しツカサに手渡した。
「今日は最初にお誕生日おめでとうを言いたかったのに……」
今年もお誕生日前夜に電話をしてカウントダウンをしたかったのに、昨夜はツカサに十時就寝を言い渡され、お誕生日のカウントダウンはできなかったのだ。
それに、今が「朝」ということを加味するならば、「おはよう」だって言いたかったし、スーツが似合うことや、弓を持つ姿が様になっていることだって伝えたかった。でも、じっとスマホを見ているツカサは、「そんなのはあとでいい」と取り合ってはくれない。
「体調は?」
「だるいとかそういうのはないから大丈夫。たぶんあと数日もしたら下るんじゃないかな?」
私は言いたかったあれこれを諦めて、コンシェルジュに声をかけながらエントランスを横切り始めた。
そんな私の背後で、
「今日は始業式とホームルームが終わったら明日の入学式の準備か……」
「ツカサ、そんなに心配しなくても大丈夫。私、体調悪くないよ?」
振り返ってそう伝えるも、ツカサの表情は浮かない。思案顔のままだ。
「もうっ、そんな顔してるとほっぺたつねっちゃうよ?」
私はかばんを持っていない右手でツカサの左頬をつねると、軽く外側に引っ張って見せた。
「入学式は列から外れて後方で座らせてもらうし、入学式準備に関しても問題はない。力仕事の椅子出しは男子がしてくれる。女子は入学のしおりに添える冊子作り。午後過ぎには終わる。帰宅したらツカサと合流だけど、それだってお誕生日をお祝いするだけ。今年は七倉さんにケーキをお願いしちゃったから、私はお好み焼きを作るだけよ?」
ね? 問題ないでしょう? 問題ないよね?
笑顔で返答を求めると、ツカサは難しい顔をしたまま頷いた。
この時期の気候はとても清々しい。
朝の空気はまだ少し冷たくて、太陽が昇ると優しい陽射しが降り注ぎ、穏やかなあたたかさに身を包まれる。
そんな日は芝生の上に寝転んで、日向ぼっこをしたくなる。
「春らしい陽気ね?」
「あぁ……」
ツカサはまだ私の体調を心配しているのか、表情が曇ったまま。
この心配性はどうにかならないものか……。
これではまるで二年前の蒼兄のようだ。
こんなとき、話の主導権をツカサに渡すと、またバイタル転送アプリを自分のスマホにも――という話になってしまう。
そこで私は先手を打つことにした。
「桜って難しいお花よね? 卒業式には間に合わなくて、始業式では盛りを過ぎたところ。あと一週間もしたら散っちゃう。それでも、入学式にはかろうじてお花がついてるからまだいいのかなぁ……。花散らしの雨が降らないといいのだけど」
そんなことを口にしてはみたけれど、週間予報では雨の「あ」の字も見られない。入学式の明日は晴れの予報だし、それからの一週間も一番高くて降水確率は十パーセントがいいところ。
だからたぶん、この桜たちはあと一週間ほどならもつだろう。
その間に、桃華さんや飛鳥ちゃん、海斗くんに佐野くん。仲のいい友達を誘って桜香苑でお弁当を食べたい。
制服を着て訪れられるのは今年が最後だから。
この美しい桜たちと一緒に過ごす時間を、いつでも思い出せるように写真に収めておきたい。
そんなことを考えていると、
「翠……」
とても神妙な声が聞こえてきた。
「もう一度俺のスマホに――」
言葉半ばで私は異を唱える。
「今ですらこんなに心配性なのよ? 遠隔で数値がわかった暁には、少し血圧や脈拍が上下するだけで連絡きちゃいそう」
軽く笑みを添えてツカサを追い越すと、冗談として流されたと思ったのか、ツカサにぐいと腕を掴まれ引き寄せられた。
「状態がわからないから心配なわけで――」
ツカサの顔は真剣そのもの。
だからだめなのだ……。
「数値を知っても心配するでしょう? 今のツカサは二年前の蒼兄みたい」
図星だったのか、ツカサはとても気まずそうに顔を逸らした。
これは仕方がないことなのかな……。
友達もツカサも、私の身体のことを知れば知るほどに、どんなときでも心配が先に立つ。
中学では考えられなかったことだけど、これが普通でも少し困る。
「もっと普通に接してほしいのに」と思うことはどれほど贅沢なことなのか――
でももし私が健康優良児で、ツカサが私のような体質だったら同等の心配をしてしまいそうだし、同じことを口にしてしまいそうだ。
それでも私は、もっと普通の会話を楽しみたい。たとえば――
「ツカサ、知ってる?」
「え?」
「桜はね、咲き始めのころは中心が黄色いの。花が終わるころになると、花の中央が赤くなって、ピンク味の強いお花に見えるのよ? 私、咲き始めの桜も好きだけど、もうそろそろ散ってしまうっていうときの、この赤味の増した艶っぽい桜が大好き」
頭上に垂れ下がる枝に手を伸ばすと、カシャ――
聞き覚えのある音に振り返ると、ツカサがスマホのカメラを私に向けていた。
「あ……撮られた」
ツカサはディスプレイをまじまじと見たまま、
「よく撮れてると思う。見る?」
そう言って差し出されたスマホを見ると、ほのかに微笑んだ表情で桜に触れる自分が写っていた。
「わぁ……自然な表情で写ってる。ちょっと嬉しいかも……」
こんなふうに写る写真は、久先輩が撮ってくれた写真以外には一枚もないだろう。
「あとで画像送る」
「ありがとう。ね、どうせならふたりで写らない?」
「桜をバックに?」
「そう。今日はツカサがスーツだし、大学の入学式だし、お誕生日だし」
全部詰め込んで「特別な日だから」を強調する。そして、先日入手した新兵器をかばんから取り出す。
「じゃんっ! 自撮り棒!」
ツカサは不思議そうな顔で、
「ジドリボウ?」
「自分を撮る棒、で自撮り棒。先日、カメラのリモコンを買うのと一緒に買っていたの。これがあったら一眼レフと三脚がなくても一緒に写真が撮れるでしょう?」
別にこの棒がなくてもふたりの写真は撮れる。でもその場合、背景は皆無。ふたりの顔がどアップで写るだけで、どんな場所で撮ったのかまでは写真に写しこめないのだ。
私は自分のスマホを手早くセッティングすると、
「シャッターボタンは?」
新しいものに興味を持ったらしいツカサにたずねられる。
「これ」
私はスティックに装着してある取り外し可能なリモコンを指差した。
「これね、リモコンになっていて、取り外しも可能なのだけど、スマホとはブルートゥースを介した無線シャッターになっているの」
「へぇ……」
よし、ひとまず話は逸らせたし、今はツカサも自撮り棒に興味を持ってくれている。
私はそそくさと写真を撮るアングルを決めることにした。
ふたりが入るのはもちろんのこと、きちんとバックに桜も入れたい。
「撮るとしたらこのアングルかな……? あ、でも弓が見切れちゃうね?」
「いや、弓は全部入れる必用ないだろ?」
「そっか……」
私たちは満開の桜をバックに、新年度初の写真を撮った。