光のもとでⅡ+
短大受験
Side 翠葉 01話
六月の半ばから、私のピアノレッスンは週一から週三へと変化していた。
そして、七月半ばの今日のレッスンで、仙波先生は重々しく口を開いた。
「御園生さん、割と危機感を持っての感想なのですが……日増しに演奏がひどくなっていくご自覚はおありでしょうか」
「はい……」
私は縮こまって答える。
「御園生さんの性格上、練習をさぼっているわけではなさそうですし、いったい何が影響しているのか、ご自身で見当はついていますか?」
その問いかけも「Yes」だ。
「……受験日が近づくに連れて胃が金属音を鳴らすみたいに音を立てて痛んで――」
「つまりは……」
「緊張していますっ」
先生は神妙な顔でひとつため息をつくと、
「緊張でここまで演奏がひどくなるとは初耳です。受験の何に緊張しているのかは分析してみましたか?」
「はい」
「では、今日はそのあたりをおうかがいいたしましょう」
そう言うと先生は、ピアノ前からソファセットへと場を移した。
そこにはもちろんツカサもいるわけで、どうにもこうにもいたたまれない状況だ。
「もともと上がり症であることは慧くんからうかがっていましたが、ここまでとは思いませんでした」
「すみません……」
「謝る必要はないのですが、今はその緊張の原因と向き合い、緊張を解くのが先決です」
「小論文は大丈夫なんです。面接もなんとかなるかもしれません。でも、どうしても実技試験がネックで……」
緊張の原因は小五のときに参加したコンクールで間違いないと思う。
コンクールそのものに緊張していたというよりは、コンクールで評価されること――それが師事している先生の評価にダイレクトにつながるということを延々聞かされた結果、プレッシャーになってしまったというのが事実なのだけども……。
その話をすると、仙波先生はひとつため息をついた。
「川崎先生は奥さんのほう? それとも芸大で教授をなさっているだんな様のほうでしたか?」
「奥さんのほうです」
「そうでしたか……。まぁ、芸大に勤めている旦那さんを持っていると、そういうことに過敏になるのかもしれませんし、そういう価値観の指導者が一定数いることも確かです。ですが、私に関して言うならば、一切気にしておりませんのでお気になさらず」
先生はにっこりと笑ってゴリ押しを始めた。
「私は受験生を持つのも初めてですし、その生徒が得た栄光を自分のものと勘違いするような愚かな指導者に成り下がるつもりは毛頭ございません。自分の評価は自分の演奏から得られるもののみで結構です。ですので、御園生さんが私に関してプレッシャーを感じる必要はないのですよ」
そうは言われても、「評価される」ことに苦手意識を持ってしまっているこれをどうにかするのは非常に困難だ。
「それから、『評価』についてですが、試験官は何も御園生さんを落とそうと思って演奏を聴いているわけではありません」
「え……?」
「どの先生も、受験者の今の技術がどのくらいで、どの程度の伸びしろがあるのかを見定めようとしているだけです。なので、完成度の高い演奏をできるに越したことはありませんが、未完成だからだめというわけではないのですよ。いくら完成度の高い演奏ができたとしても、伸びしろを感じられなければ落とされる人もいます」
「……そうなんですか?」
「はい。実技試験での演奏にプラスして面接があるでしょう? そこでいかほどの向上心を見せられるかというのもポイントになってきます」
この日先生は、ピアノ技術やソルフェージュ以外の受験対策を教えてくれた。
「それから、難関の四大から短大へ標準を変えたんです。御園生さんの実力ならまず問題なく受かります。なので、そんなに力まず弾けばいい。いいですか? 天と地がひっくり返るようなことがない限り、あなたは受かります。緊張でどうしようもなくなったら思い出すといいでしょう。あなたは表現者です。表現したいことがあるからステージに立ってピアノを弾くんです。それ以上でもなければそれ以下でもない。人に評価されるのはその次のことであり、第一にはあなたが表現したいことを表現すればいい。それだけです」
私は先生の言葉の魔法にかかったかのように、次の週からは普通に演奏できるようになっていた。
そうして向かえた八月一日。今日からAO入試出願が始まる。
三日以内に出願届を提出し、八月九日木曜日には入試がある。そうして、数日後の十一日に合否発表がされるという強行軍。
もし、この入試に落ちたら次は十六日からの三日間が出願日となる。
もちろん、少し間を空けて二度目のAO入試を受けるという手もあるけれど、私の場合、緊張がネックになっているため、受験の雰囲気を忘れないうちに受けるのが得策とみなされた。
「はあ……緊張する」
A4の封筒を胸に抱え、短大の入り口で立ち止まっていると、
「ただ書類を提出してくるだけだろ? とっとと行って来ればいい」
短大まで一緒に来てくれたツカサに小突かれる。
「そうなんだけど……あと数日後には受験なんだって思うとそれだけで胃がキリキリするんだもの」
「仙波さんも言ってただろ?」
「え……?」
「面接官や試験官は翠を値踏みするためにいるわけじゃないって。翠の伸びしろを見るために、今の翠の可能性を見るためにいるのであって、決して落とそうと思って演奏を聴いているわけでも、面接をしているわけでもない」
改めて言われ、私は喉越しの悪い何かをゴックンと呑み込んだ。
「じゃ、行ってくるね」
「待ってる」
私は一歩を踏み出し、短大の敷地内に入った。
入ってすぐ、円形のロータリーを半周回って事務所入り口にたどり着くと、「AO入試出願者はこちら」という指示に従って歩いて行く。
と、緊張するのもバカらしいほどに流れ作業の出願届提出場となっていた。
皆が皆、列になって出願届を出している。
名前と写真、いくつかの確認をしたらそれで終了。
出願はあっという間に終わってしまった。
呆気に取られて出てくると、ツカサが入り口付近で待っていてくれた。
「何、ポカンとした顔して」
「え? あ……本当にあっという間に終わって……」
「出願届にそんな時間がかかってたら事務方だって大変だろ?」
「そっか……そうだよね?」
「あとは練習あるのみなんじゃないの?」
「うん……。今日から受験日までは先生が泊りがけでレッスンしてくれるから、言葉どおりのレッスン漬け」
「じゃ、しばらくはコンシェルジュのランチを食べることになるんだろうから、今日くらいは外で食べて帰ろう」
「うん!」
私はツカサと警護班の車に乗り込み、支倉の駅でお昼ご飯を食べてから藤倉のマンションへと戻ってきた。
先生はコミュニティタワーの宿泊施設の整った部屋に寝泊りしていて、私たちが帰宅したときにはレッスンルームでピアノを弾いていた。それは私の受験曲。
先生は自分でも何度も弾き重ね、私の曲想をより深く練る手伝いをしてくれているのだ。
「ただいま戻りました」
「お帰りなさい。どうでした?」
「とても緊張していたのですが、流れ作業の事務作業で終わってしまって呆気にとられてしまいました」
「そんなことだと思いました。当日も割と流れ作業ですから、そんなに驚かないでくださいね? お昼ごはんは?」
「済ませてきました」
「では、少し休憩したらさっそくレッスンを開始しましょう」
そこへ高崎さんがお茶を載せたカートを押してやってきて、十分ほどの休憩を取ってから、文字通りのレッスン漬けとなったのだった。
そして、七月半ばの今日のレッスンで、仙波先生は重々しく口を開いた。
「御園生さん、割と危機感を持っての感想なのですが……日増しに演奏がひどくなっていくご自覚はおありでしょうか」
「はい……」
私は縮こまって答える。
「御園生さんの性格上、練習をさぼっているわけではなさそうですし、いったい何が影響しているのか、ご自身で見当はついていますか?」
その問いかけも「Yes」だ。
「……受験日が近づくに連れて胃が金属音を鳴らすみたいに音を立てて痛んで――」
「つまりは……」
「緊張していますっ」
先生は神妙な顔でひとつため息をつくと、
「緊張でここまで演奏がひどくなるとは初耳です。受験の何に緊張しているのかは分析してみましたか?」
「はい」
「では、今日はそのあたりをおうかがいいたしましょう」
そう言うと先生は、ピアノ前からソファセットへと場を移した。
そこにはもちろんツカサもいるわけで、どうにもこうにもいたたまれない状況だ。
「もともと上がり症であることは慧くんからうかがっていましたが、ここまでとは思いませんでした」
「すみません……」
「謝る必要はないのですが、今はその緊張の原因と向き合い、緊張を解くのが先決です」
「小論文は大丈夫なんです。面接もなんとかなるかもしれません。でも、どうしても実技試験がネックで……」
緊張の原因は小五のときに参加したコンクールで間違いないと思う。
コンクールそのものに緊張していたというよりは、コンクールで評価されること――それが師事している先生の評価にダイレクトにつながるということを延々聞かされた結果、プレッシャーになってしまったというのが事実なのだけども……。
その話をすると、仙波先生はひとつため息をついた。
「川崎先生は奥さんのほう? それとも芸大で教授をなさっているだんな様のほうでしたか?」
「奥さんのほうです」
「そうでしたか……。まぁ、芸大に勤めている旦那さんを持っていると、そういうことに過敏になるのかもしれませんし、そういう価値観の指導者が一定数いることも確かです。ですが、私に関して言うならば、一切気にしておりませんのでお気になさらず」
先生はにっこりと笑ってゴリ押しを始めた。
「私は受験生を持つのも初めてですし、その生徒が得た栄光を自分のものと勘違いするような愚かな指導者に成り下がるつもりは毛頭ございません。自分の評価は自分の演奏から得られるもののみで結構です。ですので、御園生さんが私に関してプレッシャーを感じる必要はないのですよ」
そうは言われても、「評価される」ことに苦手意識を持ってしまっているこれをどうにかするのは非常に困難だ。
「それから、『評価』についてですが、試験官は何も御園生さんを落とそうと思って演奏を聴いているわけではありません」
「え……?」
「どの先生も、受験者の今の技術がどのくらいで、どの程度の伸びしろがあるのかを見定めようとしているだけです。なので、完成度の高い演奏をできるに越したことはありませんが、未完成だからだめというわけではないのですよ。いくら完成度の高い演奏ができたとしても、伸びしろを感じられなければ落とされる人もいます」
「……そうなんですか?」
「はい。実技試験での演奏にプラスして面接があるでしょう? そこでいかほどの向上心を見せられるかというのもポイントになってきます」
この日先生は、ピアノ技術やソルフェージュ以外の受験対策を教えてくれた。
「それから、難関の四大から短大へ標準を変えたんです。御園生さんの実力ならまず問題なく受かります。なので、そんなに力まず弾けばいい。いいですか? 天と地がひっくり返るようなことがない限り、あなたは受かります。緊張でどうしようもなくなったら思い出すといいでしょう。あなたは表現者です。表現したいことがあるからステージに立ってピアノを弾くんです。それ以上でもなければそれ以下でもない。人に評価されるのはその次のことであり、第一にはあなたが表現したいことを表現すればいい。それだけです」
私は先生の言葉の魔法にかかったかのように、次の週からは普通に演奏できるようになっていた。
そうして向かえた八月一日。今日からAO入試出願が始まる。
三日以内に出願届を提出し、八月九日木曜日には入試がある。そうして、数日後の十一日に合否発表がされるという強行軍。
もし、この入試に落ちたら次は十六日からの三日間が出願日となる。
もちろん、少し間を空けて二度目のAO入試を受けるという手もあるけれど、私の場合、緊張がネックになっているため、受験の雰囲気を忘れないうちに受けるのが得策とみなされた。
「はあ……緊張する」
A4の封筒を胸に抱え、短大の入り口で立ち止まっていると、
「ただ書類を提出してくるだけだろ? とっとと行って来ればいい」
短大まで一緒に来てくれたツカサに小突かれる。
「そうなんだけど……あと数日後には受験なんだって思うとそれだけで胃がキリキリするんだもの」
「仙波さんも言ってただろ?」
「え……?」
「面接官や試験官は翠を値踏みするためにいるわけじゃないって。翠の伸びしろを見るために、今の翠の可能性を見るためにいるのであって、決して落とそうと思って演奏を聴いているわけでも、面接をしているわけでもない」
改めて言われ、私は喉越しの悪い何かをゴックンと呑み込んだ。
「じゃ、行ってくるね」
「待ってる」
私は一歩を踏み出し、短大の敷地内に入った。
入ってすぐ、円形のロータリーを半周回って事務所入り口にたどり着くと、「AO入試出願者はこちら」という指示に従って歩いて行く。
と、緊張するのもバカらしいほどに流れ作業の出願届提出場となっていた。
皆が皆、列になって出願届を出している。
名前と写真、いくつかの確認をしたらそれで終了。
出願はあっという間に終わってしまった。
呆気に取られて出てくると、ツカサが入り口付近で待っていてくれた。
「何、ポカンとした顔して」
「え? あ……本当にあっという間に終わって……」
「出願届にそんな時間がかかってたら事務方だって大変だろ?」
「そっか……そうだよね?」
「あとは練習あるのみなんじゃないの?」
「うん……。今日から受験日までは先生が泊りがけでレッスンしてくれるから、言葉どおりのレッスン漬け」
「じゃ、しばらくはコンシェルジュのランチを食べることになるんだろうから、今日くらいは外で食べて帰ろう」
「うん!」
私はツカサと警護班の車に乗り込み、支倉の駅でお昼ご飯を食べてから藤倉のマンションへと戻ってきた。
先生はコミュニティタワーの宿泊施設の整った部屋に寝泊りしていて、私たちが帰宅したときにはレッスンルームでピアノを弾いていた。それは私の受験曲。
先生は自分でも何度も弾き重ね、私の曲想をより深く練る手伝いをしてくれているのだ。
「ただいま戻りました」
「お帰りなさい。どうでした?」
「とても緊張していたのですが、流れ作業の事務作業で終わってしまって呆気にとられてしまいました」
「そんなことだと思いました。当日も割と流れ作業ですから、そんなに驚かないでくださいね? お昼ごはんは?」
「済ませてきました」
「では、少し休憩したらさっそくレッスンを開始しましょう」
そこへ高崎さんがお茶を載せたカートを押してやってきて、十分ほどの休憩を取ってから、文字通りのレッスン漬けとなったのだった。