恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
「ドゥドゥちゃん、いい子ね。暑くなる前に帰ろうね」
 窓に馳せた視線を、落ち着いているドゥドゥに移す。

「またか。おい、ドゥドゥ帰るぞ、歩けって」
 オーナーが歩き出しても動かない。

「ドゥドゥ、先生のことを好きでいてくれるから嬉しいよ。でも早く帰らないと暑くなるよ」
 中腰でドゥドゥに話しかける顔も声も甘くて優しい。

 院長がドゥドゥのお腹の下から手を入れ、支えながら持ち上げて立たせて、さりげなくドゥドゥを入口に誘導する。

「ドゥドゥ、いい子だ。立てるじゃないか、偉いな」
 
 極寒のシベリアが原産国のサモエドにとって、高温多湿の日本の気候での飼育は、人間が十分すぎるほど気をつけてあげないと、体にかかる負担が大きい。

 院長は暑くなる前にドゥドゥを家に帰してあげたい。
 入口のドアを開けて二人で見送る。

「暑いところから、急に涼しいところに入ると熱中症を起こしやすいです。エアコンを弱めで扇風機と合わせて、徐々に涼しい環境にしてあげてください」

「わかりました、ありがとうございます」

「ドゥドゥ、気をつけてね。またね」
 ドゥドゥの顔、つぶらなまん丸な可愛い瞳が名残惜しそう。

 ドアの前に立ち、「お大事にどうぞ」と見送る私たちに、オーナーとドゥドゥが振り返り振り返り帰って行く。

 見送った二人の言葉が見事に揃った。口を開いたら一言一句、タイミングまで完璧に。

 待合室をあとにする院長のうしろをついて行くと、待機室についた瞬間に院長が囁いた。

「見送る言葉が揃った。ただし、川瀬がわずかに一拍、出遅れた。これには、スクラブのような賭けはないのか、例えば」

「例えば?」
 ごくりと息を飲み、長身を仰ぎ見る。

「ここに、ないのか」
 自分の頬の横で、長い人差し指を優雅に動かす。
 しばらく見つめ合い、長い時間が止まった。

 ──ように感じた。

「なにを見ている、早く、ここだ」
 まだやめないの?
「ここ」
 相変わらず頬を軽くトントンしている。そんなことできるわけがないでしょ。

「ためらうな」
 折りたたむように膝を曲げて、私の目線の高さまで近づいてきた。

 いつもは、『距離が近い、離れろ』って言うのに。

「ここだ、ここ」
 どきどきしながら棒立ちのまま、院長の顔をじっと見つめたまま動けない。

 意を決して太ももに力を入れて、一歩踏み込んだ。

「食べ物、なにか食べ物」
 タイミングを見計らった院長の言葉に、つんのめるかと思った。

「なんだ、もう」
 硬くなった体から、ふわりと力が抜ける。

「なんて顔で見ているんだ、がっかりか」
 私の強い視線で判断してよ。

「冗談を真に受けるな。しかし、気が強い目だな」
 片側の口角を軽く上げて、一笑に付すとパソコンの前の指定席に座った。

「待合室、ドゥドゥの。ああっと、ドゥドゥの、ドゥドゥの」

「ドゥドゥがどうした。しどろもどろだ」
 鼻をふんと鳴らす笑い声を背に、待合室へ向かう。

 笑わないでったら、こっちは真剣なの。ドゥドゥの抜け毛を掃除してくるって言いたいの。
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