恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
 冗談がいきすぎで、笑い飛ばす余裕なんかない。
 あんなしたら頬にキスかと思うじゃない、まぎらわしい。

 誰が、そんな賭けに乗りますか、ふざけないでよ。
 無頓着なくせに、なにを言い出すの。

 香さんに動揺を悟られないように、待合室の掃除を代わった。

 気が強い目だって。あのね、院長も散々見てきたでしょ。

 動物看護師って女性ばかりの職場で、たくさんのしがらみの中、解放されない精神的な束縛に折り合いをつけながら仕事をするの。

 しかも話せない動物の命を預かっているし、オーナーの心のケアや獣医師のフォローもするの。だから、気が強いの。

 気が強くないと、やっていけないの。

 ん? もともと気が強いから動物看護師になるのか、それとも動物看護師になってから気が強くなるのか。

 改めて考えたこともなかった。

 床を拭く手先が微かに震える。
 隠しきれない動揺が心と体を震えさせるから、さらにますます意識してしまう。

 頬と優雅な人差し指に視線が集中した。唐突に『ここに、ないのか』なんて言うんだもん。

 階段といい今回といい、なにこの胸のどきどきは。顔が熱い。
 冗談でしょ、馬鹿ばかしい。そんなことあり得ない、集中、集中。
 
 院長の言動は印象に残るから、否が応にも思い起こしてしまい、隙をついては私の頭に思い起こさせる。

 そして一日中、私の心を熱くなるほど、かき乱してきた。

 今日も患畜の来院に、オペが一件と仕事に追われ、閉院間際を迎えた。

「明彦、莉沙ちゃんのご家族が今からハッピーを引き取りにいらっしゃるわ」
 受付から、よく通る香さんの声が聞こえてきた。

「了解、家に必要なものや餌」

 座るのも惜しいのか、立ったまま検査台に腰を預けて文献を読んでいる院長が、受付に向かって口を開く。

「もちろん、数日前からとっくに用意してるわよ」
 香さんが受付から上体を出して、待機室にいる院長の言葉にかぶせて返事をした。

 その後、ご家族でハッピーを迎えに来てくれて、本当に動物が好きなんだと嬉しくなった。
 それに、ご家族みんなが仲良しさん。

 面会では大勢で来たら迷惑になるからと、毎日数人でお見えになっていたけれど、今日は誰もいない待合室に、六つの幸せな笑顔が並んでいる。

「お待ちしていました」
 院長の挨拶から始まって、それぞれが言葉を交わした。

「先生!」
 満点の笑顔を浮かべた莉沙ちゃんが、院長のもとへ走って来て、両腕をいっぱい伸ばして、院長の腰に抱きついた。
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