恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
 万年筆を持つしなやかな指先が、カルテの上を滑らかに進むからカルテに視線を移す。
 鳴いて痛がる。浅部痛覚ありと記入されていた。

「ノンネちゃん、傷口を見せてくれてありがとう。痛いのにごめんね。治るように先生と頑張ろうね」
 院長の目尻の下がる微笑みがノンネにも通じるのね、安心している。

「普通はガラスの欠片を踏んだりすると、傷口に微量でも付着しているのですが、ノンネちゃんの傷口には原因になるようなものが、なにも付着していません」

 みるみるうちに池峰さんの顔が引きつる。不安になるのも無理はない、原因不明なんだもん。

「今のところ原因が特定できませんが、治療はできますから安心してください。なんとかして原因究明してみます。わからないと不安ですよね」
「よろしくお願いします」

 池峰さんの顔が晴れやかな笑顔に変わって、深く頭を下げる。処置をして診察が終わった。

 薬棚の端。池峰さんから見えない場所から受付の様子を眺める。
 院長を目で追ってキョロキョロする挙動がおもしろくて、つい観察してしまう。

 待機室に行ったら、院長が首を傾げて難しい顔をしている。
「どうしたんですか」

「ノンネの傷口は、今までの臨床経験や症例から総合判断して、不可抗力でできる傷とは思えない」
 俯きながら、なにか考えを巡らせるみたいに、人差し指でこめかみを軽く叩いている。

「なんだろうか、おかしい」
 何度も何度も、首を傾げる院長の姿を初めて見た。

「川瀬さん、ちょっといい?」
 受付が済んだ香さんに呼ばれた。小走りで受付に行くと、こちらも首を傾げて浮かない顔で考え事をしている。

「どうしましたか」
「池峰さん、明彦のことを事細かに聞いてくるのよ、プライベートのことまで。変よ」

 香さんが、不信感が募るのを落ち着かせるみたいに、自分の体を抱き締めて、両腕をさすっている。

 池峰さん、代診の海知先生にまで院長のことを聞いていたけれど、とうとう香さんにまでか。


「こんなこと明彦には言えない。川瀬さんがいてくれて助かるわ」
「私も香さんには、吐かせてもらってますから」

「待合室でも受付でもキョロキョロ挙動不審だし、池峰さん変よ。爪切りや熱中症の話や缶詰めは、明彦に逢いたい口実じゃないかしら」
 やっぱり香さんも思ったんだ。
 
「明彦は純粋に動物が大好きだから、犬猫を見ると、つい笑顔になってしまうのよ。それをオーナーたちは、自分に笑いかけられたと勝手に勘違いしちゃう」

 思わず唸りそうになった。あったあった小川でも。
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