恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
 院長も、こんな風な気持ちになるときがあるのかな。

「どこの動物病院でもあるのね。今回もオーナー側の勘違いのパターンよ」

「今回もって、以前にもあったんですか。聞くまでもなく、院長ならもちろんありますよね」
「気になる?」

 意味深に口角を上げる香さんに、そわそわしているのを気づかれないように、「いいえ」と答えた。

「今まで勘違いした数々のオーナーたちに言ってあげたいわ。明彦の笑顔は、あなただけの笑顔じゃないのよってね」

「数々のって。想像はつきますが、院長に恋するオーナーは、そんなにいらしたんですか」
「気になる?」
 うふふと頬を緩ませているから、話題を変えた。

「院長は経験や症例で判断して、ノンネの傷口が不可抗力でできる傷とは思えないっておっしゃってました」

「また明彦、原因究明に努めるわよ」
 
 院長の信条は、臨床上の疑問点は必ずその日のうちに解決すること。

 それもあるし、獣医師としては傷の原因が確定できないと、不安がるオーナーが大半を占めるから、早急に原因解明してあげたいみたい。

 この日から香さんと私は、徐々に池峰さんに不信感を抱き始めた。

 今まで、ほぼ毎日来院していた池峰さんが、その日を境に毎日来院してくるようになった。

 しかも来院のたびに、四肢に人差し指や小指と傷の数が一日ひとつずつ増えていった。

 理由も毎回同じで、散歩から帰って来たら知らぬ間になっていたって言う。

 院長は毎日、時間が空けば文献に目を落として、原因解明に努めている。

 翌日も、そのまた翌日もと池峰さんの来院は続いた、ある日。

「また、いつもと同じ説明で同じ傷口だと思う。保定を頼むから、いっしょに入っててくれ」

 名前を呼んで、池峰さんを診察室に通した。

 院長はノンネの様子を聞いたあと、優しく微笑んで池峰さんに声をかける。

「ノンネちゃんが甘えちゃうので、待合室でお待ちいただけますか」
「はい」

 素直そうな笑みを浮かべて、池峰さんが診察室を出て行った。

 二人きりになった診察室では、院長が儚いガラス細工を扱うように、優しくノンネを抱き締めて胸に包み込む。

「ノンネ。すぐに気づいてあげられなくてごめん。痛かっただろう、こんなに傷つけられて」

 沈んだ表情で俯いて、ノンネを見つめる濃い睫毛が、深く長い影を落として悲しげに揺れる。

 傷つけられてって、どういうこと? 院長がノンネに囁いた、今の言葉は重要でしょ。
< 128 / 239 >

この作品をシェア

pagetop