恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
 まさか、うるさいって言えないもんね。動物大好きな、さすがの院長もうるさいでしょ。

 耳の穴を塞ぎたい。無意識に耳に触れないように集中しないと。

「さて、そろそろ始めようか。ね、ライツくん」
 満面の笑みを浮かべてライツを見たあとに、私を仰ぎ見る顔は、一瞬で真剣な表情に変わった。

 それが合図のようにライツに声をかけて、そっと抱き上げ保定する。

「ライツくん、いい子できるかな。少しのあいだだけ元気さんをしまおうか」
 できるもんなら暴れてごらんなさい。この関節技では、利かん坊のライツ様でも動けまい。

「ライツくん、なにも怖いことしないから、安心して大丈夫よ」
 その心を持って接しながら、心の声を口に出す。そうすれば動物は安心する。

「今のを聞きましたか。この看護師さんのように名前を呼んで、声をかけてあげながらだとライツくんは安心します」

「どうしても治してあげたい一心で、目薬のことばかり考えちゃってね。ライツの気持ちを後回しにしちゃってたわ」
 浅く腰かけ、姿勢を正すオーナーがライツを見つめる。

「わかります、そうなりますよね」
 院長が共感していますみたいに、何度も深く頷いている。

 共感するって、女性的なテクニックを院長は使うから、オーナーも気持ちがわかってもらえて嬉しいよね。

 や、院長はテクニックなんかないな。心からの共感だね。

「ライツ、ごめんね」
 オーナーがすまなそうにライツを撫でる。

「人間も診察で、急になにかをされたら不安ですよね。ライツくんは怯えてしまうんです」

 そう言って院長がゆっくりと立ち上がり、私の背後に回ってくる。

 どきどきしながら、院長と二人でライツに声をかけ合う。
 
「ライツくんから見えないうしろから、目薬を見せずに点眼してください。話しかけながらだとライツくんが安心できます」

 院長が両足を大きく開き、姿勢を低くして、私のうしろから覆い被さるような距離で話すから、右側の耳の近くが熱い。

「あら、ライツったら、気づいてないみたい。院長、凄い早技ね」
 オーナーが驚いた様子で、院長の顔を尊敬の眼差しで見ている。

「ライツくん、いい子できたね。すぐ終わっちゃったね、偉いね」
 保定を終えて、赤ちゃんをあやすように優しく体を揺すりながら声をかける。

「ただ抱いているだけでライツくんは、吠えようと思えば吠えられます。でも、看護師さんが声をかけてくれているので、ライツくんは安心しているんです」

「本当、そういえば全然吠えなくなったわ」

「動物病院は小児科と同じなんです。動物は人間の赤ちゃんといっしょです」

 厚かましいと思いながらも、これはこのオーナーに伝えておかねばと、動物看護師の使命感で話しかけた。

「ライツくんは口が利けないから、嫌なことをされれば鳴いたり暴れたり噛みついたりして、感情を訴えるしか手段がないんです。とても健気なんです」
 オーナーが納得してくれたみたい。
 
 本来動物は、どの子もお利口さんで、とてもいい子。もちろんライツも。
 躾ができていないオーナーがいけないって話なだけ。

 なんてサービス業だから、口が裂けてもオーナーには言えない。

 点眼も院長が教えてくれたから、頑張ってチャレンジしてみてほしいな。
 ライツをオーナーの手もとに返して、診察室をあとにした。
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