恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
 犬は群れを成してリーダーに支配される特性だから、しっかりとリーダーを認識させて、従わせないと主従関係がおかしくなる。

 オーナーより上の立場になると、ライツは自分がリーダーだと認識して、我が物顔で振る舞う。

 それは動物病院に来ても、私たちスタッフを下に見てくるから、治療に支障をきたす可能性もある。

 ライツにとって誰がリーダーなのか、序列をしっかり教えてあげないと、不幸になるのは他でもないライツだとオーナーに理解してほしい。

 診察が終わり、出て来た院長と入れ替わるように診察室に入る。やれやれ、ライツには手を焼いたな。相当なわがまま坊主だわ。

 診察台を消毒して診察室から待機室に行くと、定位置のパソコンの前に座っている院長が仰ぎ見る。

「でしゃばってしまい、すみません」
 「ん?」って、声を漏らして不思議そうな顔で、じっと見ている。

「動物病院は小児科と同じ、動物は人間の赤ちゃんと同じか。女性らしい気づきだ。点眼の方法や、オーナーへの心遣いもありがとう、助かる」

 意外な言葉に嬉しくなって、抑えきれない笑顔が溢れ出る。

「よかった。出すぎた真似をしたかと思ってましたのに、こちらこそありがとうございます」

「でしゃばりに出すぎた真似? そんなことは思っていない、川瀬の見方に関心した。感謝している、ありがとう」

 窓から射す日だまりに、院長の穏やかな笑顔が照らされて見つめられた。

 照れるとか恥ずかしいとかなく、温かな空気に包まれた心地いい感じで沈黙が苦にならない。

 なんとなしに無心な微笑みを浮かべ、お互いに視線を外すのが惜しいように見つめ合った。

 よく言う、お互いにだって。院長が、このまま視線を外すのが惜しいだなんて思っているわけないじゃないの。

「前髪、見づらそうです。今の髪型もとても素敵ですけど、初めて逢った日の髪型が好きです」

 私の笑顔を避けるように、長く濃い睫毛を揺らしながら院長が俯いた。

「気に障ったらすみません」
「そんなことはない」
 ぶっきらぼうな言い方。やっぱり気に障ったかな。

 夕方は、いつもみたいに二階の患畜の世話や明日の準備を済ませて、一階に下りて検査器具の洗浄をしていたら、またなにやら二人の小競り合いが聞こえてきた。

「アネキ、先に上がる。入院患畜が安定しているから美容院に行ってくる」
「こんな時間に何事? 体調悪いの?」
「病院じゃなく美容院と言った」
「そんなのわかってるわよ。なにしに行くの?」
「髪切る以外に、俺がなにしに行く」
「頭打ったの? 文献持って行かないの?」
「持って行かない。行ってくる」

 ──院長
初めて逢った日の髪型が好きです──
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