恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
 次の日、出勤して待機室のドアを開けたら、なによりもすぐに目に飛び込んできた。

「髪の毛、切ったんですね。とても、よくお似合いです」
「ありがとう」

 ぶっきらぼうな口調とは対照的に、すぐに固く結んだ唇が我慢できないみたいに、軽く微笑んだ。

 よかった、気に障ってなかったんだ。襟足を撫でるように触れていて、少し涼しくなったのかな。

「昨日、院長にお伝えしたんですよ。やっぱり院長は、初めて逢ったときの髪型が素敵です。似合いますよね。好きです」

 私の言葉を受けて、香さんがにやにやしながら頷いている。

「明彦は頭を打ったんじゃなくて、心を撃たれたのね」
「なんですか」

「独り言」って言う、香さんの声を気に止めず、昨日作ったマシュマロを渡して、二階に上がろうと廊下に出た。

 目の前には缶詰めやドライの袋が積んである。そうだ、昨日、在庫チェックをやれなかったんだった。

 数字や商品名でいっぱいの頭の中に、途切れとぎれに二人のやり取りが微かに聞こえてくる。
 
「あら? 明彦、あなたマシュマロ食べてるの? オーナーの差し入れにも手をつけないほど、甘いものが大っ嫌いなのに、どうした風の吹きまわし?」

「嫌いではない。疲れているから甘いものがほしくなる」
「疲れてるなら、昨日美容院になんか行かないで休めばよかったのに」
「学会がある」

「疲れてなんかないくせに。気を遣って無理して食べちゃって」
「違う、好きだから」
「そこ一番大事な主語が抜けてる、人物ね」

「愛とは、そんなに重要な問題なのか。主語はマシュマロだ」

「はいはい、そうですか。あ、ほらマシュマロが逆さまよ」
「え? あ」
「マシュマロに逆さまなんてないわよ、動揺してる」
「していない」
「してる」
「していない」

 在庫チェックが終わったから待機室に戻った。

「している、してないって、なにをですか」
 私の問いかけに、院長は少し顔を赤らめて俯いた。

「なんでもないのよ。二人とも二階に上がって、それぞれの仕事を始めなさい。さあさあ」
 香さんが両手で私たちを促す。

 マシュマロの味を聞いたら、院長がむせて咳き込んで、香さんの笑い声が二階に行くまで聞こえる。なんてせわしない姉弟なの。

 そういえば院長は二日間、違う分野の文献や、次回の学会や勉強会の資料に一生懸命だから、ノンネの件は院長の中では解決しているのかも。

 入院患畜の処置が終わった院長と世話が終わった私は、一階に下りた。

 やっぱり院長は、時間を惜しむようにパソコンに向かっている。

 あとは、池峰さんが来院さえしてくれれば。こんなにも池峰さんの来院を、心待ちにする日が来るとは思いもよらなかった。

 院長の言う、二人だけの秘密を早くすっきりスカッとさせてよ。

 噂をすればなんとやら、噂をするべきね。と、いうか噂をしなくても来院するか、池峰さんは。

 朝イチから来院って、気合いの入れ方が違う。
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