恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
 香さんがカルテを手渡してくれた。

「二日間、会わないだけで数十年も会ってなかったような、この気持ち」
「恋してるような口調ですね。大丈夫ですか、香さん、池峰さんにはまってますよ」

「ほぼ毎日会っていたのに、突然見かけなくなると不安なのよ」
 にこにこしている私とは正反対で、怯えたような顔が泣きそう。

「あのオーナーは特に、なにかしでかしそうな雰囲気だから。こうも胸騒ぎを覚えるものかしらね」
「胸騒ぎですか。そうですよね、いい意味じゃないですよね」
「そうよ、恋い焦がれてじゃなくて胸騒ぎよ。問診にいってらっしゃい」
「いってきます」
 診察室に通した池峰さんは、ゆったりと会釈をしてきて座った。
 ノンネの肉球は大丈夫なのかな。

 問診をしたら、新たな傷はないって。
「お散歩コースが変わったんですか」
「いいえ」
 消え入るような声で、やんわりと首を振る。傷口は触れても、肢を引っ込めなくなったって。
 元気もあるって。ノンネが元気ならよかった。

 ただ今日は、やけに池峰さんの瞳が寂しそうなのが気にかかる。

 一通り問診が終わり、診察室をあとにして待機室の院長にカルテを見せると、目を落としながら立ち上がる。

「ほらな」
 院長が呟いた。たしかに『ほらな』そう呟いた。聞き間違いじゃない。
 右手に持つカルテを、左の手の平で軽くポンと叩いて、意気揚々と診察室へ入って行った。

 すぐにあとを追い、薬棚の前で待機していたら保定で呼ばれて診察室へ入った。

「先生」
 思い詰めたような池峰さんの瞳から目が離せない。急にどうしたの?
「どうしましたか」
 院長の優しい眼差しに、眩しそうに目を細めた池峰さんが話しかけた。

「髪の毛、お切りになったんですね。とても素敵です」
 ガチガチに固く震える声だから、私まで緊張がうつりそう。
「ありがとうございます」

「先生が髪の毛をお切りになったのは、他の飼い主さん方も気づかれましたか」
 池峰さんが、院長の心の中を覗き込むように聞く。
「池峰さんが初めてです。朝一番にお会いした飼い主さんが池峰さんですからね」
 院長が頬を緩ませる。

「私が一番に気づけたんですね、嬉しいです」
 たどたどしいけれど、一生懸命に会話をしている池峰さんが意地らしくなる。

 院長は笑顔なんだけれども、受け答えは事務的。

 こういう話を長引かせて、池峰さんに気を持たせるような勘違いをさせたくないのかな。

 池峰さんのことを笑顔で観察していた院長が、満足そうな池峰さんの表情に安心したみたいで、診察モードに切り替える。

「ノンネちゃん、またちょっとだけ先生に診せてね」
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