恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
 子供をあやすような顔と声でノンネに話しかけていた院長が、私を見上げる顔つきはがらりと変わる。

「保定お願い」

 二人きりのときは『保定頼む』なのに、診察時はオーナーの手前だからか、『保定お願い』って言い方を変えてくるのがクールな院長に似合わない。

 命令されるばかりだから、お願いされると少し気分がいいのは内緒。

「ノンネちゃん、傷口はどうかな。先生に、ちょっとだけ触らせてね」

 院長が声をかけて、ノンネの反応を確認しながら傷口に触れていく。

「また、ちょっと我慢してね」
 院長が肉球を鉗子で掴む。
「痛くない?」
 おっ、浅部痛覚なし、反射反応もなくなった。

「ノンネちゃん、傷口に触れても肢を引っ込めなくなりましたね」
「はい、おかげさまで」

「傷口も表面だけではなく、しっかり内部も乾いています。この残暑だから化膿が心配でしたが大丈夫です」

 院長がカルテに記入して、こちらに視線を向ける。

「保定ありがとう。池峰さんとお話があるから席を外して」
「はい」

 話ってなんだろう? 池峰さんだって。他のオーナーのときは名字で呼ばないのに。

 診察室を出てから、そわそわ気が気でない。薬棚の前で肩を落として、視線は靴先へ落とす。
 診察室で、いったいなにが起こっているの?

 院長の言う、院長と私の二人の秘密っていうのを早く知りたいから、早く出て来て。

 平常心でいないと香さんに気づかれちゃう。

 診察室からは笑い声とか泣き声とか、まったく聞こえてこない。見つめ合っている?
 まさかね。

 院長は低く穏やかで落ち着きがある声で、池峰さんは控えめな性格に合わせて、声は線が細い。
 だからか、ぼそぼそさえも会話が聞こえてこない。

 あれ? でも、いつもなら院長の声、聞こえてくるよ? 聞こえないように小さな声で話しているでしょ。

 じれったいまま二十分ほど過ぎた。やっと椅子を引く音がした。
 早く出て来て、教えて二人の秘密。診察室のドアが開き、院長が出て来るや否や仰ぎ見る。

「院長と私の二人の秘密、教えてください」
「距離が近い、離れろ。笑顔でなんだ?」
「院長だって、ほら唇が上がってます。ねえ、院長」
「待ってろ」
 カルテで軽く頭をポンとされた。
「まずは、これを受付に回さないとだろう。メリハリはどうした」
「すみません」
 しゅんとなった。逸る気持ちを抑えなくちゃね。

 ロング丈のドクターコートの裾を優雅になびかせながら、受付から引き返して来て、私の前を何事もなく通り過ぎようとするから、院長の左腕を両手で掴んだ。
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