恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
「院長、二人の秘密」
「距離が近い、離れろ」
 なにを話していたか教えてくれないから、しょんぼりしちゃう。腕を離した。

「さっきから二人の秘密、二人の秘密って。心して聞け、そんなに騒ぐとアネキの耳に入るぞ」
 首だけ振り向き、笑い声の交じる声で発言を制止する。

 言われてみればそうだ。背筋を伸ばして、床を踏み込むようにゆっくりと待機室へ向かい歩き出すから、後ろを小走りでついて行く。

 院長が定位置のパソコンの前の椅子に座り、私は少し離れた場所から椅子を持って来て、横に座った。

「なぜ、こんなに近いんだ」
「香さんに聞こえてしまいます」
「距離が近い、離れろ」
「結論は?」
「ノンネの肉球に傷をつけていたのはオーナー」
 人は、あまりに驚くと声も出ず動かない。あのおとなしそうな池峰さんが、そんなことするんだ?

「しっかりしろ。大丈夫か、聞いているか?」
「はい、聞いてます」
 少し私が落ち着くまで待っていたみたい。

 私が平常心になったのがわかったようで、説明が始まった。

「紫色の薬剤は肉球の奥の奥に塗ったから、ノンネの舌も届かない」
「届いたとして、ノンネが舐めても人畜無害なんですか」

「正気で聞いているのか、気を確かにもて。俺がノンネに危害を加えるわけがないだろう。もちろん、オーナーにも無害だ」
 動物のことだからムキになった。ちょっと聞いただけなのに。

「あの薬剤は付着すると、なかなか落ちない。だから一日、二日待てと言ったよな?」
「はい」

「オーナーの爪と指は紫色だった。犬の肉球の奥の奥に指を入れる人間なんて稀だから、すぐにわかるような仕かけだ」

「凄い。どうして、そんな巧みなアイデアが思いついたんですか」
「シンプルな理由だ。ノンネがかわいそうだから」
 悲しそうな瞳で見つめてくる。

「ノンネを助けたい一心で問題を解決するため、仕かけは簡単だが精巧な対策を立てた」

 仕かけが簡単? いえいえ、凡人には思いつきませんって。
 さすが獣医師になるだけあって、一般人より遥かに賢く高い知能指数。

「十分にオーナーのことも考慮した末の最後の切り札だ。傷つけたくはなかった」
 院長は、池峰さんによってノンネが傷つけられて心を痛めた。
 でも心が広いから、罪を憎んで人を憎まずで池峰さんを許したんだ。

「池峰さんは早く来院したくて、紫色に染まってしまった指を必死に洗ったんでしょうね」
「そういえば、薬剤よりも薄い紫色になっていたな」
「反省はしていましたか」

「ノンネを犠牲にして傷つけないでほしいことを訴えたら、診察台に頭を擦りつけるように謝っていた」
 ノンネのことは謝りながら抱き締めていたって。
 それを聞いて安心した。あんな馬鹿げたことはしたらダメ。痛かったよね、ノンネがかわいそう。

「池峰さんは院長のことを」
「話は以上。ここまでだ」
 言いかけた途中で話を遮られた。
「院長」
 訴えかける目で見つめる。
「距離が近い、離れろ」
「院長」
「この先はオーナーのプライバシーに関わる。俺とオーナーのことに首を突っ込むな」
「すみません」
 言われて当然。考えてみればわかること。私には関係のないことだ。

 院長が立ち上がり、受付のほうへ歩いて行くから、私も立ち上がりかけた。
「そこに座っていろ」
「どうしてですか?」
「なぜ?」
 なぜって。
「どうして、ついて行ったらダメなんですか?」
「なぜ、ついて来る? ここで休憩していろ、動くな」
 素っ気ない態度ながら執拗に休憩を勧めて来て、さっさと受付に行っちゃった。
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