恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
第十章 もうやめようぜ
「院長、先ほど連絡をいただいた笠森さんが到着されました」

 受付の香さんの声に緊張が走る。

 電話で香さんが問診したカルテを事前に受け取っていて、情報は院長と共有していた。

 問診をもとに隔離室に酸素室を作り、治療に必要な器具を準備をして待機していた。

 患畜は二ヶ月のコーギーの男の子、名前はルント。

 他院でパルボウイルスと診断され、そこの獣医師に治療を拒否されたそう。

 理由は、パルボは非常に感染力が強いウイルスで、他の子たちに感染したら困るから。

「そのまま診察室に通してくれ」
「はい」
 香さんがオーナーに声をかけるや否や、時計の秒針と競うように、一心に足を動かす院長が、オーナーを診察室に招き入れる。

 わが子のように大切に想い、「助かりますか? 助けてください」と、オーナーがすがる目で何度も繰り返し、涙を流す。

 院長は、オーナーを落ち着かせて、症状を聞き出しながら言い分をじっくりと聴いて、常に優しい瞳で明朗快活に振る舞う。

 どんな状況下でも、冷静で客観的であろうとする院長は、病状や治療方針や治療費についてわかりやすくオーナーに伝え、納得してくれるまで丁寧に説明する。

 決して、絶対に治りますと、オーナーに過度な期待をさせる発言はしない誠実さがある。
 この世に、絶対なんて存在しないから。

 でも心血を注ぐ姿勢は、オーナーにも十分に伝わっている。

「なにがあるかわからないですし、絶対に安全とはいえません。ただ、これだけは確実に約束できるのは、どんな事態になろうと、われわれスタッフは、ルントちゃんを救うために、全力を尽くすということです」

 院長の言葉に、オーナーの心は安定を取り戻して、診察室をあとにした。

 その姿を見送った院長は、即座に椅子から立ち上がる。

「行こう」
 ルントが入っているキャリーバッグを抱えた院長のうしろを、カルテを持って自分の足音に追われるように、二階まで駆け上がる。

 脱水症状が命取りになるから、院長は点滴のセットを始めて、私はオペ用手袋の封を開けながら診察台に向かう。

「マスクと手袋を」
「ありがとう」
 院長がオペ用マスクをして、オペ用手袋の手首側に息を吹きかけ、広がる入り口に手を入れてキャリーバッグを開けた。

 中では、まだあどけないコーギーの子犬が力なくうずくまっている。

「もう大丈夫だ、ルントいっしょに頑張ろうな」
 院長が大切なものを扱うように優しくルントを持ち上げ、体重と体温を測定した。

「保定がいらないほど衰弱しているな、静脈確保」
「はい」

 採血と点滴処置後、すぐに一階の検査室に行って血検に取りかかる。
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