恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
 夕方になり患畜の世話の途中、院長に視線を馳せると目が合った。

「保定を頼む」

 診察台で待っていると、乳腺腫瘍で入院中しているシーズーのパンナを連れて来た。

「パンナ、鬱陶しいよな。早くエリザベスカラーを取れるようにしよう」

 院長の言葉にラッパのようなエリザベスカラーをガサゴソ鳴らしながら、パンナが上目遣いで院長の顔をじっと見ている。

「早く帰りたいよな、旦那さんのコッタに逢いたいだろう」

「あ、パンナコッタですね」

 つがいでパンナとコッタか、おもしろい。

 ここのオーナーの犬たちは、代々お菓子の名前なんだって。あとでカルテを見てみよう。

「犬は姿かたち、顔立ち、骨格や体格、サイズは特大から極小までさまざまですよね」

 だから、なんだって顔で患部の処置を施している。

「それで?」

 そうでもないんだ。

 顔は患部を見たままでも、ちゃんと話の続きを聞いてくれる。

「犬種別で発症しやすい疾患があるから、勉強してると寝食を忘れて没頭しちゃうんです」

 こうでもして、自分から相手の懐に入っていかないと距離は縮まらない。

「獣医療は体力勝負の仕事だ。しっかり栄養と睡眠をとれ」

「動物看護師って、とんでもなく体力を使う仕事ですよね。学生時代、なにか運動をしておけばよかったって思いました」

「前にも言ったように、たまに夕方ノインの散歩をしろ」

 腹帯をカットしながら淡々と話している顔は、一瞬たりとも上げもしない。

「行きます、喜んで。ありがとうございます、私に体力をつけるために」

「お礼を言われる筋合いはない。そんなつもりで散歩に行けと言ったわけではない」

 パンナに微笑みかける院長が、腹帯を着せる。

「どうしてお礼を言うんだ」

 ちらりと目を上げて独り言みたいに呟き、またパンナに目を落とす。

 冷淡じゃなくて、純粋に思っている様子。

 処置を施したパンナを、院長がケージに戻しに行ったから診察台を消毒。

 パンナの次に耳血腫で入院中の柴犬、加賀美大恩を片脇に抱えて戻って来た。

「大恩もラッパさんだね、早く外せるといいね」
 声をかけて保定をすると院長が触診後、消毒を施す。

 大恩が反射反応で耳を振ったから、消毒液が顔に飛んできた。

 むず痒かろうが、手を離すわけにはいかない。

「気持ち悪いよな。ごめんな」

 院長が顔の半分を歪ませながら謝った。今のは大恩にだよね?

「抗生剤は上手に飲めているか」

「おとなしく経口投与させてくれてます」

「大恩、お利口さんだな。偉いな」

 院長が低く穏やかな声で、大恩の胸もとを優しく撫でる。

 大恩は、反射反応で耳こそ振りはするけれど、嫌がる素振りは見せない。

 小川で見た柴犬の数頭は、警戒心が強くて環境の変化に敏感で、他人に触れられることが苦手だった。

 ふだん、おとなしくても急に噛みついてくる子たちもいた。
 
 我慢強い性格が幸いして、必死に耐えているんだよね。健気だなって思った。

 緊張状態に耐えられなくなっちゃって、反射的に噛んじゃうんだよね。

 嫌な思いを辛抱強く、頑張って我慢した結果だから、申し訳なさそうな顔をする子もいた。
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