恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
 海知先生が両手を胸の上まで上げて、オペ前の洗浄後のポーズで、自分の胸元に立っている私の顔をじっと見下ろしている。

「さて、ここで問題です。川瀬さんは何回コードイエロー(緊急事態発生)と言ったでしょうか」
「涙の数と心の傷の数」

「なにその乙女、顔面偏差値が低いくせに」
「ハバネロ強制給餌しますよ」
「腹へったな。よし、強制給餌しに行くか。俺が、あ──んってしたら口に放れよ」

 海知先生が軽く走り出す。あの長い足には、とうてい追いつけないよ。

「待ってください。嫌です、放りません」
「優しく入れたいのか」
「そっちじゃなくて」
 走っていた海知先生が、急に立ち止まる。

「痛っ。急に止まったら危ないじゃないですか」
「あのさ」
 深刻な顔で見るから、首がうしろにつきそうなくらい顔を見上げて固唾を飲む。

「あのさ」
「なんですか」
「川瀬の泣き顔な」
「泣き顔が?」

「川瀬の泣き顔、驚くほど崩れてる。だから、泣くのは俺だけの前にしておいたほうがいい。笑わせにきてるのかと思った」

「行きましょう、ハバネロ強制給餌しに」
 海知先生の腕を引っ張り、ぐいぐい前に歩く。
「おい、聴けって、あとひとつ」
 立ち止まって振り返る。

「泣いたあとな。顔中、涙でガビガビで、まるで蝋人形館みたい」
「海知先生の言うことに、素直に立ち止まった私が馬鹿でした」

「馬鹿な子ほど可愛い。お前は可愛いよ。見ろ、川瀬の居酒屋があった、入ろう」
 今度は海知先生が引っ張って行く。

「看板見てみろ」
「珍畜りん。海知先生!」
 声を上げる私に構うことなく、どんどん歩を進める。

 店名にしては、カントリー調の店内の洋風居酒屋。通されたテーブルは、さながら西部劇に出てくるような、焦げ茶色で厚くて大きな一枚板。

 ビールをオーダーしながら、「好きなの頼め」って。

 オーダーをしたら、あとは最近の小川の話を聞かせてくれたりして、核心には触れないで放っておいてくれる海知先生の優しい性格には、いつも救われる。

 目の前で組んでいる持て余す長い足が、テーブルの下から山みたいに顔を出している。

「それで今日は、どういった用件でコードイエロー(緊急事態発生)を?」

 おしぼりで手を拭きながら意志の強い唇を堅く噛み、話を促すような視線を投げてくる。

「いきなり胸に飛び込むなんて、今までとは違う。いったい、なにがあったんだ」
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