恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
第十一章 BARの夜は心の距離も近くなる
 パルボのルントが旅立ってから数週間が経った、ある日の朝。

 待機室に入ると背筋を伸ばして 、優雅な手つきでパソコンのキーを叩く院長の顔が目に飛び込む。

「おはようございます」
「おはよう、ぐっすり寝られているか」
「はい、おかげさまで」
「なにか心配事はないか」
「ありがとうございます。おかげさまで、ないです」
「それは、よかった」

 院長はルント以降の救急でも、ふだんから治療方針やオペや諸々の疑問点は、その日のうちに解決する。

 いつもひとつの問題に対して、ウジウジずっと悩まない。

 だから、たくさんの問題を、効率よく次々と解決していけるんでしょ。

 それには知識と経験が必要って、身を呈して教えてくれている。

 ふとした沈黙の中、じっと私を見つめる院長に質問された。  

「決めたか?」
「なにをですか?」
「忘れたなら、あの約束は反故にするか」

 あの約束ってなんだろう。なんか約束したけっけ? 視線を宙に馳せながら、あれこれと考えを巡らせる。

「ヒントください」
「口止め料に、ヒントもなにもあるか」
 まずいって顔で院長の表情が固まった。

 ピンときた私は、思わず勝ち誇った笑い声を上げて院長を見た。

「なにがおかしい」
 私をちらりと見る涼しい顔が、目を横に流す。
「院長、自分から口止め料って言っちゃいましたね」
 にこにこして見てしまう。

「いつまでも川瀬がわからないから、つい口から出たような発言で、わからせただけだ」

「よく、そうして瞬時に頭と口が回りますよね。まずいって顔してましたのに」

「それも含めて芝居だ」
 うん、やっぱり獣医師って変わり者が多い職種だよね。

 落ち着いて考えてみると、あることに気づいた。

「私たちの会話って、院長と香さんの会話みたいになってきましたね」

「興味ない」
 よく言う。香さんとの小競合い、いつも楽しそうだよ?

「口止め料か。そういえば、あれからだいぶ日にちが経ってるのに決めてませんでした」

「行きたいところ、食べたいもの、してほしいこと。ないのか」

「また、ゆべしで出かけたいです」
「ゆべし」
 不意をついたのがツボだったのか、院長が吹き出した。

「発想がユニークだ」
「それで、どこに行きたいんだ?」
「今、上映してる犬の映画を観に行きたいです」

「犬の映画?」
「はい」
「わかった」  

 院長、疎そう。けっこうコマーシャルしているんだけれど、観たことないのかな。

 在庫チェックをしている香さんの気配がして、どちらからともなく会話を和やかに終わらせた。

「おはようございます」
「おはよう。明彦、今日の入院どう?」
 在庫チェックをしながら香さんが聞いている。

「今のところ落ち着いている、なにか?」
 気になるのか、肩から回って振り返る。

「海知先生の歓迎会どう?」
「二度も代診をしていただいたのに、翌日、お礼の連絡をしただけだったな」

「決まりね。いつ、なにが起こるかわからないから、今日もお店の予約はしないわね。二人とも頭の隅に歓迎会のことを入れておいて」
「はい」

 その後、海知先生に連絡したら一も二もなく賛成した。
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