恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
 朝から、次々に外来診察をこなしていたとき。

 診察室側から待合室を見渡すと、赤茶のMダックスを抱いているオーナーが座っている。

 感情を高まらせ、声を抑えながら泣くことを我慢しているから、放っておくことができなくて、声をかけて隣に座った。

 患畜の名前は浅永リン。

 十六歳の女の子で、悪性腫瘍を患っていて通院しているんだって。保科にきて初めて会った子だ。

「リンは日なたぼっこが好きで、いろいろな人や動物と接することが好きだったんですよ」
 オーナーは、ぽつりぽつりと話し始めた。

「でも今は誰も寄せつけないで、誰もいない部屋の隅で横になったまま、じっと動かないんです」

 リンの性格が以前と変わったのか、それとも辛さからきているのか原因の特定は、はっきりとはできない。

 特定できるのは、オーナーが現状に寂しさを募らせていること。

 リンはオーナーに撫でられているのが安心するのか、目を閉じたまま抱っこされている。

「リンが辛そうで、もう苦しむ姿を見ていられなくて」
 肩を震わせながら小刻みに息を吸い、すするように泣き出した。

「苦しみに耐えられて、お辛いですよね」

 溢れる涙が頬にひとすじの線を引きながら、顎下まで濡らしたからティッシュを渡してオーナーの左手を握った。

 聞き役に徹することで、オーナーの心を救いたい。
 リンの今の状態を観察すると、もう安易に大丈夫と励ませる状況ではない。

 オーナー自身が、大丈夫と自分に言い聞かせるのと、他人から言われるのとでは意味が違う。

 診察室の中では院長には言えないけれど、スタッフになら言えることもあるようで、言うと楽になるって。

 しばらくして受付の香さんが待合室に来て、カルテを渡された。
 そして、力なく歩くオーナーの背中を抱えながら診察室に入った。

 リンの体重と体温を測定して、問診を終えるとボックスティッシュを診察台に置き、院長を呼びに行った。

「リン、悪性腫瘍なんですね」
「ああ、そうだ」
「カルテや問診からの情報だと終末期ですか」
「終末期寄りだ」

「オーナーが、泣いていらっしゃいました」

「治療効果のあるなしや、病状の進行によって、オーナーの心は、激しく揺れ動かされる、相当大きなストレスを抱えている」

「今も泣いたり、黙り込んだりしたかと思ったら、急に微笑んだり」

「ある意味、オーナーも患畜と同等の患者だ。だから、心のケアが大切だ」
 待機室にいた院長のあとについて、また診察室に入った。

「こんにちは」

 微笑みながら挨拶をする院長を、見上げるオーナーの顔には、疲労の色が濃く見られる。
 挨拶は蚊の鳴くような声で、もう限界を超えていそう。
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