恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
 体重を測定したあとは、院長が触診をしたり聴診器を当てたり、口内や肉球や肛門を調べたり、脂肪のつき具合を掴んでみたり新規の健診を施す。

 初診の子は、どんな子か予測不能だから急に攻撃的になるんじゃないかと、一挙一動を見守る。

「狂犬病ワクチン、その他は接種済みでフィラリアも投薬していらっしゃるんですね」

 院長が内診をしながら、さりげなくここに来た理由を聞き出そうとしている。

 かかりつけの動物病院でしたのかな。どうして、うちに来たの?

「ヴァンスの散歩仲間さんたちから、先生は丁寧に説明してくれて診てくれるから、こっちの方がいいよって、クチコミっていうんですかね」

「そうでしたか、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 良くも悪くもクチコミの力は大きい。

 私の警戒心とは裏腹に、ヴァンスはとてもおとなしく院長に診てもらっていて、いっさい鳴くこともない。

「ヴァンスちゃん、本題のお耳を見せてもらうよ」

 すぐに保定をした。保定は格闘技で組み合うみたいに全身を使い、力技じゃなく関節技で押さえ込む。

 ヴァンスの毛が顔にくっついて、頬も鼻もむず痒い。

 片耳に直径十センチほどの白く盛り上がっている腫瘍が見える。
 触診でヴァンスが反射的に頭を振るから、吹き飛ばされそうになる。

「白く固いしこりです。悪性のケースはほとんどないので慌てる必要はありません。ヴァンスちゃんの場合は、除去すれば完治と言えます」

 院長の確信した言葉に、オーナーが安心したように深く息を吐いた。

「ただひとつだけ、ヴァンスちゃんのお耳の中が気になるんです」

 オーナーに言うと、院長はヴァンスの垂れ耳をめくり、触診をしたり匂いをかいだりしている。

「お耳のお掃除は、定期的にしていますか?」
「やあ、いつやってもらったきりかな」

 オーナーが、記憶を辿るように宙に向かい、目を上下左右に動かす。

「しこりが一段落したら、お耳のお掃除に通院してあげてください」
「はい」

「しきりに頭を振って痒がっていますでしょ、匂いもします。耳毛も抜いてあげないとかわいそうです」

 院長の言葉にオーナーが苦笑いを浮かべる。気づいていたのに、大丈夫だろうと放置していたんだね。

「はい、ヴァンスちゃん終わりだよ。いい子だから、すぐに終わったよ、偉いな」
 処置を施した院長が、ヴァンスに微笑む。

 私たちは、それぞれの椅子に座り、私とオーナーは、カルテに万年筆を滑らす院長を見つめていた。

 書き終えた院長が、顔を上げた。

「ヴァンスちゃんの耳のしこりは、全身麻酔で手術をおこないます」

「全身麻酔なんですか?」
「全身麻酔です。鎮静剤と注射麻酔で寝かせてあげて、吸入麻酔薬を組み合わせます」

「全身麻酔は怖いイメージがあるんですが」
 まだ、そういうイメージが大多数なのかな。

「今から血液検査をします。麻酔に耐えられる体か、どの麻酔が効くか、どの麻酔だと副作用があるかなどを細かく調べ、安全に努めます」
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