恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
 われに返ったら現状が見えてきて、夢中で院長のスクラブをハサミで切って脱がせた。

「距離が近い、離れろ」

 院長の言葉なんか無視で、診察台のシンクまで引っ張って行き、前屈みにさせ、ぬるま湯のシャワーを左肩にかけた。

「石鹸で洗います、沁みますけど我慢してください」
「距離が近い、離れろ」
 院長の言うことなんか聞いていられない。

 石鹸をよく泡立てた手のひらで、患部を洗い流した、もう十分っていうほど念入りに。

 ヴァンスは超大型犬だから、唾液の量も範囲も広い。患部の周りも、唾液を落とすために丁寧に洗い流した。

「俺は平気だ」
 全然、平気じゃない。まっ白になるまで、こぶしを握り締めて、黙って耐えているじゃないの。

「どうして? どうして、私なんかを庇ったんですか」

「獣医になにかあっても代診医がいる。アニテク(動物看護師)には代わりがいない」

「すみません」
「俺は大丈夫」

「なに言ってるんですか、動脈どころか静脈が切れても人は死ぬんですよ! どうして、こんな無謀なことを」

 急いでタオルと消毒液と綿球を持って来て、椅子に座る院長の隣で、背中や胸もとをタオルで拭いた。

 肩はガーゼで軽く押し当て吸水して、綿球を消毒液に浸した。

「綿球当てます、痛いけど我慢してください」
「たいしたことはない、大袈裟に騒ぎすぎだ」

 小川時代、片手に乗りそうな小さなチワワに噛まれても痛かったのに、子牛よりも大きなヴァンスに噛まれて、痛くないわけないじゃない。

「おまじないの軟膏を塗ってから、保護ガーゼを当てておきます」 

 傷口を潤しておくと肉が盛り上がり、周りから皮膚が再生する軟膏。
 けっこう動物病院でも、重宝している優れもの。
 
「包帯巻きますね。あ、シャワーどうしよう、ラップで覆えばいいか」
 上目遣いであれこれ考える私に、院長が口を開く。

「たまには処置をされる側も悪くはない」

「なに言ってるんですか、明日、ちゃんと病院に行ってください。あと今夜からアイシングを徹底してください」

 さっきは顔を歪ませて苦しんでいたのに、我慢しちゃって。

「明日、病院ですからね」

「ここには消毒液も抗生剤も鎮痛剤もある。それに、完璧に手当てができて頼りになるアニテク(動物看護師)もいる」

 薬棚の辺りを見回し、肩をすくめる顔には余裕がある。

「不用意に肩を動かさないでください」
「厳しいな、平気だ」
 ちらりと上目遣いで見てくる。

「院長の肩に必要なのは、動物病院じゃなくて人間の病院です」
「命に別状はない、かすり傷程度だ」

「獣医師なら、ご存じでしょう? なにより一番恐ろしいのは、感染症です」

「俺を叱るとは強者だな。あれだけ石鹸でこすられて洗われたんだ、取り越し苦労だ」

「行くんですったら、行くんです! 行かないなら、明日から手当てしませんから!」

「相変わらず、気が強いな」
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