恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
 院長が軽く顎を出して頷く。

「もしかしたら、噛みグセを隠していたってことですか?」

 私の言葉に深く頷き、また考え事。考えを巡らせるように唇を噛んでいる。

「あっ、問診で最初にヴァンスに触ろうとしたら、オーナーにがっちり制止されました。それに聞いてないのに、ヴァンスは噛まないって」

 考え事をしていた院長が、思い立ったように口を開いた。

「やっぱり、ヴァンスの給餌は俺がする。川瀬は、いっさいヴァンスには近づくな」
 院長が立ち上がり、給餌場に向かって歩き出した。

「座っててください、私がしますから」
 強めの口調で、うしろを追いかけた。

「ダメだ」
「もうしばらく、アイシングしててください」

「それなら餌の用意だけしてくれ、給餌は俺がする」
 そう言うと、おとなしく戻って診察台に腰を預けて、アイシングをしている。

 支度ができて運んで来たら、院長が立ち上がった。
「ありがとう」

 私の手から食器を受け取り、ヴァンスのケージの前に二人でしゃがんだ。

「距離が近い、離れろ」
 眉を膨らましたかと思ったら、カギを開けるときには優しく微笑んだ。

「ヴァンス、落ち着いたか、初めて勲章ができた」
 噛まれた左肩を指さして勲章だって。

 初めて噛まれたんだ。今まで噛まれないでこられたなんて凄い。
 反射神経と運動神経の発達の賜物。

「おい、ヴァンス覚悟しておけよ。俺を噛んでも、ひるまないからな」
 不敵な笑みを浮かべてケージを開ける。

「座れ」
 地声の低く響く声が、さらに毅然とした態度に輪をかけて迫力がある。

 院長は素直に座るヴァンスと向き合い、しっかりと目を合わせる。
「よし」

 大きな犬には珍しく、食事を楽しむようにゆっくりと食べている。

「なぜ、さっきから俺をじっと見ている」
 視線はヴァンスから離さずに訊ねられた。

「こんなに大きなヴァンスに、唸られて噛みつかれたのに、また噛まれやしないかって怖くないんですか」

「怖いという感情は、まったくない」
「院長にとって、怖いことってなんですか」
「ない」
 感心する。肝が据わっているって院長みたいな人のことをいうんでしょ。

 少し安心したのも束の間。

 院長の横顔から視線を下に移したら、まずいことになっている。
 熱く火照る顔を隠すように、下を向いて呟いた。

「院長、スクラブ」
「スクラブが?」

「なにか着てください、切ってしまってすみません」
 俯く私を察したみたいに、ふと笑った。

「夢中で忘れていたのか」
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