恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
「どうした、そんなに慌てて」
 他人事みたいに、冷静に顔を上げた院長との温度差に風邪を引きそう。

 なによりも一番の気がかりを訊ねた。
「病院には行って来ましたか?」

 デスクの上に無造作に置かれた薬袋を、人差し指と中指ではさんで見せてきた。

「失礼します」
 手に取り、中身を確認すると抗生剤と鎮痛剤。

「だから、うちにあるといっただろう、俺に医者は無用だ」

「たしかに動物病院は、人間用の医薬品を使ってますよ。内用薬も外用薬も点滴も注射液も、なにもかもすべて。でも、お医者様にきちんと診てもらうんです」

 のらりくらりとした言葉なんて、真面目に聞いていられない。

「容体は?」
「容体なんてほどのものではない」
「容体は?」
 答えるまで引き下がらないから。

「距離が近い、離れろ。二、三日で完治だ」
 下手な嘘なんかつくから、鼻から大きな息が飛び出した。

「本当だ、初期対応がよかったと医者が褒めていた」
 瞳が斜に構えるように院長を見上げた。

「疑っているのか、自分の対処法に誇りをもて」
「もってます」

「相変わらず気が強い、明日もよろしく」

 自分の左肩を指さしたかと思ったら、言うだけ言って歩き出したから、あとについた。

「入院処置を始めよう」
「痛みは?」
 階段を上りながら、前を行く院長に質問する。
「ない」

「アイシングは?」
「した」
「一晩で包帯ずれてませんか」
「ずれていない」 

「シャワーで患部は濡れませんでしたか?」
「濡れませんでした、問診は以上ですか?」
 
 いつも香さんが言っている気持ちが、よくわかった。
 こっちが真剣なのに、敬語は頭にくる。

「この程度でいちいち腹を立てていたら、数いる理不尽なオーナーたちに、ペースを乱されるぞ」  

「怒ってません。それより傷に障りますよ、そんなに肩を揺らして笑うと」

「負けず嫌い」
「なんですか?」
「独り言だ」

 入院室につくと、院長がヴァンスのケージの前にしゃがんだから、隣にしゃがんだ。

「距離が近い、離れろ」
 また始まった、わかりましたよ。

 早速、ケージ越しにヴァンスに話しかけて微笑んでいる。 

 どうして動物が攻撃してくるのかを熟知しているから、怖くもなんともないのかな。

「オペは明日に変更ということは、ヴァンスは一度退院ですか」 

「ああ、さっき連絡を入れた。ここだとストレスで、かわいそうだ」

「迎えは何時頃ですか」
「オーナーも出勤しなくてはならないから、すぐに来るそうだ」
 ヴァンスが頭を振り、私たちをじっと見たまま、目を離さない。

「怖いか、ちょっとしたヴァンスの動きに、動揺してしまうか」

 私がヴァンスの些細な動作にも、いちいち反応してしまうのがわかったみたい。

「少しずつ、ヴァンスと心の距離を縮めればいい」
「はい」

「慌てるな、ヴァンスだって人間を怖れているが、どうにか平静を保とうと必死だ。信頼しようと頑張っている」

 瞳はさっきから、ずっとずっとヴァンスを温かく見つめている。

「な、ヴァンスだって噛みたくて噛んだんじゃないもんな。ヴァンスなりに理由があるんだもんな」

 言葉の端々からは、飾り気のない温かさがしみじみと伝わってくる。
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