恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
「今朝、病院に行かれたと、今さっき受付の方からお聞きしました」

「どうか、お気になさらずに。噛まれるのも仕事ですから」

 今まで、一度も噛まれたことなんかないのに。
 安心させるように、院長が柔らかい微笑みをオーナーに向ける。

「今日のオペが、明後日に延期になったというのは、先生がヴァンスに噛まれたためですか」

「あくまでも、ヴァンスの体調を考えての判断です」
「すみませんでした」
 急にオーナーが、これ以上は下げられないほど頭を下げた。

 院長の心遣いがオーナーにも、はっきりわかっているはず、だから謝るんでしょ。

「どうか、頭を上げてください」
 院長の言葉に、良心の痛みを吐き出すように、オーナーがぽつりぽつりと話し始める。

「ヴァンスは先住犬でした。三年前に大型犬の子犬を迎え入れたんです」
「新しい子は男の子ですか?」
「はい」
 院長が納得したように大きく頷く。

 オーナーの話によると、子犬が成犬になり体格も大きくなったら、ヴァンスと権力争いが始まり、ヴァンスが負けてしまったって。

 わかった、それだ。

 だからヴァンスは、自分の縄張りに執着して、縄張りを脅かされそうになると、攻撃的になってしまうんだ。

「ふだんのヴァンスは、お迎えした子とは、どんな感じですか」
「迎え入れた犬は、すぐに知人に引き取ってもらいました」

「そういった経緯だったんですか。われわれは動物に噛まれることは仕事です。ただヴァンスは、無抵抗の動物看護師に噛みつこうと向かっていきました」

「ヴァンスを治療中ではなかったのですか」
「いいえ、違います、彼女は無抵抗でした」

「すみませんでした。実は数軒の動物病院では、ヴァンスが噛みついて怪我を負わせてしまい、診察を拒否されました」

 想定内だからか、院長は鼻柱も動かさず冷静に受け入れている。

「黙っててすみませんでした、ヴァンスには噛み癖があるんです」
 良心の呵責に苛まれて耐え切れなくなったみたい。ようやくオーナーが白状した。

 いくら私たち獣医療従事者は、患畜に噛まれるのは仕事のうちとはいえ、犬が噛んだことがあることを隠して来院することが、現実に多々あるから恐ろしい。

「もう隠し事はないですか?」
「はい、すべてお話しました」

「正直に話してくださってありがとうございます。ヴァンスと信頼関係を築いて、仲良くなれるように努めます」

 オーナーが驚いた顔で、息をするのも忘れて固まってしまった様子。

「先生から、思いもよらない言葉をいただいて。どの病院からも一発でヴァンスは、ダメ犬の烙印を押されましたのに」

「僕はヴァンスを見捨てません」
 院長の力強い言葉に、オーナーが安心したみたい。

「本当にありがとうございます」
 院長に促されたオーナーが、ヴァンスをケージから出して帰宅した。

 見送った院長がこっちを見て、口をすぼめてキッシングノイズで私を呼んだ。

 チュッチュッって、どうしてあんなに早く大きな音で鳴らせるのかな。
 院長の舌って、どうなっているの?

「ヴァンスは老犬になり、権力争いに負けてプライドが傷つけられた気の毒な子だ。縄張りであるケージに、執着するのも無理はない」

「居場所を守るのに必死なんですね」
「ああ」
「私たちでヴァンスの心を開いてあげられたら」
「ゆっくり焦らず、いっしょに」
「はい」
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