恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
 リンの癌が中心の生活じゃなく、日常生活の中に癌もある。
 そうしないと癌に振り回されてしまう。

 ぐらつく椅子に座らされているみたいに、浅永さんの気持ちが揺らぎ始め、不安定になってきた。

「今まで家にいたリンがいなくなって、これから私はどうなってしまうのか、不安で怖いです」

「リンちゃんと私たちといっしょに、今を大切に生きましょう。これからリンちゃんと、どんな時間を生きていきましょうか」

 浅永さん、いっしょに前向きに考えよう。残された時間はたとえ短くても、かけがえのない時間になるはず。

「身近にいる大切な人の力になれるように。リンちゃんの力になれるように。浅永さんはひとりではないですよ」

 浅永さんの手を握っていた、私の手を握り返してくれた。まるで私の言葉に答えてくれるように。

「リンの力に、いっしょに生きる時間」
 浅永さんが自分に言い聞かせるように呟き、院長が続けて口を開く。

「そうです、そして自分を励ますことができるように」
 
 忘れないでほしい、浅永さんはひとりじゃないってことを。

「浅永さん、チョコレートを持って帰ってください。さっき買いすぎてしまったから食べきれそうになくて、助けてください」

 微笑んだら笑顔を返してくれた。

「ありがとうございます」
「私のほうこそ助かりました、ありがとうございます」

「遠慮なくちょうだいします」
 チョコレートを持った浅永さんが、下げた頭の前にチョコレートを掲げ、席を立った。

 ドアに向かう、浅永さんの背中に手を添え、隣を歩く。

「失礼します」
「明日、またお待ちしています」
「よろしくお願いします」
「お気をつけて」

 不安定気味な小さな背中を見送り、微笑みの余韻が残っている、院長の顔を仰ぎ見る。

「お疲れ様です」
「お疲れ様」

 今の今まで浅永さんに向けていた柔らかな微笑みが、真顔に変わった。

 よくそうして、すぐにコロッと表情を変えられる。

「肩を看ましょう」
「よろしく」

 診察台の脇にある椅子に、院長が腰かけて、ゆっくりしているから、そのあいだにタオルと消毒液と綿球とサージカルテープを持って来た。

 準備ができると、院長が前開きケーシーのファスナーを下ろそうとした。

「あっ、痛いでしょう、私が」
「距離が近い、離れろ、平気だ、自分でできる」
 院長、聞いてね。院長の言うことなんか構っていられないから。

「失礼します」
 ケーシーに触れると、院長は観念した様子で、なすがまま。
 そっとファスナーを下ろして脱がせた。

「痛くないですか」
「大丈夫」
「我慢してませんか」
「していない」
 俯く顔から低い声が聞こえる、素っ気ないんだから。

 包帯をとって、背中や胸もとをタオルで拭いた。
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