恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
「リンちゃんを」
 低く落ち着いた声に、私と浅永さんが見上げると、院長の喉仏が上下に大きく動いた。

「リンちゃんを、お家に連れて帰ってあげませんか」

 リンは、もう食べることができないけれど、口もとを水で浸してあげたら舐める。
 水だけで三日間は生きられる。

「リンちゃんが好きだったことをさせてあげて、願いを叶えてあげませんか」
 リンが穏やかに過ごせる最善の選択だと、私も思う。

「お散歩した思い出の場所を、抱っこして見せてあげませんか」

「リンは、人やわんちゃんが大好きでした。お友だちにも、挨拶をさせてあげるときがきましたね」

 穏やかな浅永さんの表情に、院長も私も黙って頷く。

「リンが大好きだったことをさせてあげる。リンが幸せに思えることをして、大切な日々を過ごす。それがリンの望みですよね」

「そうですね、リンちゃんが一番好きな人は、誰よりも浅永さんですし、一番好きな場所はお家です。叶えてあげましょう」

 リンの望みを。

 日々、痩せ衰え弱っていくリンの姿を見て、浅永さんはリンの死を受け入れていっている。

 もう取り乱して泣き叫ぶことも、当たり散らすこともなくなった。

 院長の言葉の意味も、しっかりと理解している。
 リンの望みも、よくわかっている。

 抗がん剤、放射線、オペ。
 さまざまな治療を施したけれど治らず、治療法もなくなった、リンの自宅看護が決まった。

 その後、リンが残された時間を、楽に穏やかに過ごせるように院長が説いた。

「いつでも待っています、どんな状況でも受け入れます」

「リンの望みを叶えて見送ってあげたい。でも退院後の生活に不安でいっぱいでした。先生がいてくださるから、とても心強いです」

 リンを抱いて、入院室を出る浅永さんの表情は、いつになく穏やかで安らかな表情で微笑みさえ浮かべて、帰って行った。
 
「お疲れ様です」
「お疲れ様。立派だった、一人前になったな」

 心の染み入るような、優しい静かな笑みで満足を示す嬉しそうな院長に、心が動かされて反射的に微笑んだ。

「これからもよろしく」
 深い喜びから緩む頬が、いっそう院長の笑顔を深くする。

「こちらこそよろしくお願いします」
 褒められた喜びと気恥ずかしさが交じり、俯く顔には熱を帯び、両頬が緩んだ。

 院長が私を褒めてくれたんだ!

「包帯を交換しましょう」
「ありがとう」

 タオルと保護テープを取りに行っているあいだに、院長が消毒液と綿球とピンセットとサージカルテープを持って来ていて、診察台の脇にある椅子に腰かけている。

「準備は私がしますから、おかけになっててくださればいいのに」

「怪我人扱いするな、もう平気だ」
 相変わらず口も元気。
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