恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
第十四章 院長にとって最も恐ろしいこと
 ヴァンスの件から五日が経ち、今日はオペ。

 院長からの注意事項を守ったオーナーが、今朝ヴァンスを連れて来て、一泊二日の入院で預かった。
 
 鎮静剤と注射麻酔で、少しはおとなしくなってくれたから、静脈確保もスムーズに導入できて、無事に全身麻酔下でオペが終了した。

 いつものように昼休み中にオペで、その後は麻酔が覚めるまで、常に目を気配り観察していた。

 夕方の患畜の世話や保定の補助も終わり、院長は処置を済ませて一階に下りて行った。

「ヴァンス、点耳しようね」

 巨大なケージの中に視線を馳せると、垂れ耳をわずかに動かして、真っ黒な毛のあいだから覗かせるつぶらな瞳で、じっと私を見ている。

「院長の代わりは、私がやらなくちゃ。よし」

 ケージの扉を開けて、中に入るとヴァンスの耳が、ぴくりと動いて腰を上げかけたから、お尻に軽く手を添えて伏せさせる。

「ヴァンス、いい子できるじゃないの」
 スクラブのポケットから、点耳薬を出そうとした。

「ヴァンス、気分はどうだ、いい子だな、先生、なにもしないよ」

 背後から、子供をなだめるような優しい口調で、ヴァンスの名前を呼ぶ穏やかな声がする。

「ヴァンス、おとなしいです」
 唇をほころばせて仰ぎ見ると、中腰の院長がゆっくりと人差し指を唇にあてる。

 眼球は揺れ動き、その顔は強張り、今まで見たことがないくらいに引きつった表情で、ケージから出ろと目で合図をされた。

 噛まれたときより、蒼い顔をして心配しすぎ。
 
 ケージを出ようとしたら、ヴァンスが地響きみたいな唸り声を上げて、今回は鼻にしわを寄せ集め、鋭い牙を剥いて体を震わせるようにしている。

 オペ後は麻酔から、まだ完全に目が覚めていないと思ったのに、もしかして次の段階の、興奮状態に移行してしまったのかもしれない。

 あまりの怖さに、みぞおちを掴まれたようにドクンと鳴る。

 この世の空気がないみたいに呼吸が浅くなって、水の底に落とされた感覚で苦しくて上手に息ができない。

 院長は、私の視線の動きと顔色で一瞬、片側の顔を歪ませた。

 全身から血の気が引いて、手足が冷たくしびれてきた。
 唾を飲み込む大きな音さえ、ヴァンスを刺激しそうで浅く呼吸する。

「ヴァンス、いい子だ、そう唸るなよ、なにもしないよ」

 ヴァンスを撫でる少し笑みが交じった優しい声が、すぐそこで聞こえるのに。

 すぐそこ目の前に院長がいるのに、体がぜんぜんいうことをきいてくれない。

 逃げ場のない狭いケージの中で、私の体よりもずっと大きなヴァンスは、今度こそ私を噛むつもりなの?
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