恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
 まだ新規といってもいいくらいの子だから、ヴァンスの行動がまったく予測がつかない。

 これから起こりうる最悪の事態に、ヴァンスの脅威を感じ、想像力がさらなる恐怖をかき立てる。

 今さっき院長から、ケージから出ろと目で合図をされたけれど、ヴァンスの前ですくむ足は微かしか動けない。

 まるで、子供がいやいやをするように、辛うじて動かせる首を横に振った。

「大丈夫、俺がいる、怖くないからおいで」

 ケージ越しにヴァンスを撫でながら、落ち着いた低い声が、瞳に優しさを溢れさせて微笑み、私に呼びかける。

 一度は威嚇するヴァンスの唸り声が止まるから気を抜くと、察知してなぶるように首を震わせながら、お腹の底から絞り出すような、唸り声を上げてくる。

 無遠慮に鼻に多数のしわを寄せ、口もとを上げ、鋭い牙を見せつけるように威嚇してくるヴァンスには、恐怖しかない。

 崖っぷちに追い詰められて、足を踏み出すような恐ろしさに、体が震えて動けない。

 怖い、無理。

 口が、わなわな震えて、喉が詰まって声にならない。

 唯一、意思表示ができる瞳を頼りに、院長を見ると、心は安心するのに、体が膠着したまま動いてくれない。

「怖がらないで大丈夫、俺がついている。勇気を出して一歩踏み出してみるんだ。俺が目の前で、ついているから」

 唇をほころばせ、目尻を柔らかく下げて、大きく頷いてくれる。

 院長の穏やかな口調と笑顔とは対照的に、ヴァンスの苛立ちは、喉の奥から突き上げるような唸り声に変わってきて、唸る間隔が短くなってきた。

 ヴァンスの興奮が頂点に達したんだ、息遣いも荒々しい。

 悟った、大きなため息が漏れそう。

 全身麻酔が覚めるときの興奮と攻撃的な行動は、出る子と出ない子がいる。

 ヴァンスは見事に出る子だったんだ。

 もうダメかもしれない。

 子牛ほどもあるヴァンスの巨体が、こんなに興奮しているから逃れられないと思う。

 無情な絶望感と暗い淵に引きずり込まれたような虚脱感に襲われ、目の前の光景から一つひとつ現実感が消えていく。

 魂を奪われたような放心した目で、ぼんやりと院長を見た。

 うつろな私の目と目が合った院長が、今度はヴァンスに視線を馳せている。

「ヴァンス、よく聞けよ。俺ときみは男同士だ、気持ちがわかるだろう。弱い者や無抵抗の者には紳士に振る舞うんだ」

 院長の表情と声に気を取られているヴァンスの隙をつき、ケージの外からヴァンスを撫でる院長の右手が、私の左手をそっと掴んだ。
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