恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
「大恩も耳血腫だけで、それ以外は健康。ずっとケージでトイレまでケージはかわいそう。明日、大恩も散歩に連れて行ってもいいですか」

 院長のほうに、体ごと向けて聞いてみた。

「大恩は、おとなしいが、まだ散歩をさせたことがないから慎重にならないとダメだ。今夜、大恩を散歩に連れて行き、ノインとの相性を見る」

「それで明日の散歩は?」
「せっかちなところがあるのね」

「そうだ、帰りに大恩の家を見て帰ろう」

「女の子がひとりで夜道は危ないから、まっすぐに帰宅しなさい。わかった?」

 独り言のつもりが、香さんには聞こえたみたい。

「大丈夫ですよ」
「ダメよ、いけません。許しません」

 院長をたしなめるときみたいに、強い目力で見つめられた。

 怖いな、うちの昔のママみたい。

 あれもダメ、これもダメ、おとなになってからって。
 
 オーナーに、もしものことがあったら?

 今、もし家の中で倒れていたら、大恩がひとりぼっちになっちゃう。

 香さんが、たしなめるけれど軽く返事ができず、しばらく黙っていた。

「頑固だな」
 やっと手を止めた院長が顔を向けてきた。

「違うわよ、大恩を想っての行動よ。三日間待ちましょう。それでも、まだ連絡がとれなかったら明彦に行かせるから」

 もしオーナーが倒れていたら、三日間も放置じゃ亡くなっちゃう。

「これで納得しろ」
 せっかくいいアイデアを思いついたのに。返事のしるしに頷く。

「返事は」
「はい」
「偉そうにしない。働いてくれてるんだから大切にしなさい」
「食べたら上がれ、もう遅い」

 院長は香さんの言葉を聞く気がないんだ。

 パソコンのキーボードをスピーディーに叩く優雅な音が、また聞こえ始めた。

「ごちそうさまでした。今日はお誕生日をお祝いしてくださって、ありがとうございます」

「こちらこそ、気づかなくてごめんなさいね」
 香さん、気にしすぎだから恐縮する。

「でも喜んでもらえて、とても嬉しいわ」

 香さんの満面の笑みの背後では、院長がキーボードを叩きながら、私を見て軽く頷く。

 『早く帰れ』『まっすぐ帰れ』って、何度も何度も。

 言われなくても帰りますよ。

「わかってね。あの子は、あなたのことが心配なのよ。だから、しつこく繰り返し言うのよ」

 内緒話みたいに耳もとで囁く優しい声は、院長にも私にも愛情を注いでくれている。

「ありがとうございます」

 香さんと視線を合わせてから、後ろの院長にも会釈した。

 一瞬だけ私を見たと思ったら、またパソコンに視線を移しちゃった。

 待機室を出て、ルカの様子を見てから着替えを済ませて外に出た。

「さて行こう」

 気になるものは気になるの。

 このまま帰る毬さんではない。大恩の家まで出発。

 ふだんは大通りに出るけれど、大恩の家は反対方向なんだ。

 住所的には、まあまあ近いかな。

 ケーキで、お腹がいっぱいになったから散歩にちょうどいい。
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