恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
 私の言葉に返すように、力の抜けた笑い声が頭上から降り注がれる。 

「川瀬のことがだ」
 そして、真顔に変わった。

「大切だから。川瀬が大切だから、体も反射的に動いた。俺にとって守ることは当然だった」

「怪我を負ってまで、自分を犠牲にして」

「川瀬を庇って、怪我をすることが自己犠牲というのならば、俺は自己犠牲を厭わない」

 仰ぎ見る私の頭を、院長が自分の胸の中に抱き寄せたら、熱い体温が伝わった。

「怪我のうちには入らない。たいしたことではない、安心しろ」

 強く抱き締められて、のぼせたみたいに頭も体も浮いているみたいなのに、胸だけは飛び出そうなくらい、激しい鼓動が鳴りやまない。

 静かに顔を上げたから、まじまじと見つめる。
「どうした」

「いつ見上げても、院長の鼻の穴しか見たことがないから」

「発想がユニークだ」
 正直に言ったら、綺麗な歯並びの口もとをほころばせ、控えめな笑い声を漏らす。

「また、じっと見ている」
 繊細でしなやか指先が、指のあいだからこぼれて逃げていく、私の髪を追って撫でる。

 耳から首から背中から、つつつと電流が走り抜けたみたいに痺れる。

「んん」
 無自覚な声が、短く吐く息とともに小さく漏れる。

 今、私の髪に触れている手が、院長の手だなんて信じられない。 

「突然で信じられないことばかり。なにが起こってるのか、頭が追いつかなくて混乱してます」

 心の重心の置き場がなくなって、足が震えるほど心が乱れる。

「状況は突然でも、お互いの気持ちは日々緩やかに高まっていった。だから、これは必然的な結果だ」

 ぽかんとした顔で、きらきら輝く院長の瞳を仰ぎ見る。

「いつか俺と、こうなりたかったんだろう。待っていたんだろう」
「なに言っ」
「こういうときは黙るもんだ」

 言いかけた言葉をかき消され、すっと顔が近づいてきて、左の瞼にキスをするから自然と目が閉じた。

 と、いうか閉じさせられた。

 そのキスとおなじ、柔らかさと温かさを唇に感じる。
 キッシングノイズが上手だから、キスもこんなに甘くて上手なの?

「リラックス」

 とろけそうな低く爽やかな声が、唇と唇のあいだから漏れてきて、重なり触れ合う時間は長く続く。

 喉が塞がって息ができない。ん、ん、ん、ってもがく。

「息をしろ」
 鼻から漏れる息と、軽く吹き出す笑い声が上唇に吹きかかる。 

「生まれて初めてだから、どうしたらいいのかわからないんです」

「息ができないほど夢心地か」
「息つぎの方法がわからないんです」
「わかっている、冗談だ」

「夢心地も合ってます」
 恥ずかしいけれど、素直な気持ちを伝えた。

「初めてで、これだけ上等なキスを受けたら、もう俺以外とのキスなんかは味気ない」

 診察中のときとおなじ、自信に満ち溢れた笑顔が真顔に変わり、背中を丸めて優しく抱き締めてくる。

「川瀬は、最上級な唇を受け入れてしまったから」
 目を見張る美形が少し首を傾げて、ゆっくりと近づいてくるのを、じっと見つめる。
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