恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
「別に動物病院にかぎったことではない」

「それなら、動物病院の特徴は? 生き物が相手だから、完全に休めるような休みはいっさいないのよ」

「なにを今さら、お互い百も承知だ」

 飄々とした院長の言葉に、同意のしるしで深く大きく頷いたから、私の気持ちも香さんに伝わった。

「仕事とプライベートには、明確な境界線がない職種なのよ。楽しい嬉しいだけでは、到底やっていけないわ」 

 ママみたいに、香さんも私たちを心配してくれているのが、とてもよくわかる。
 心配だからこそ、口うるさくなるんだよね。

「喧嘩して、腹が立とうが憎かろうが、病院は開けるの。だから、それ相当の覚悟を決めなさいってこと」

「ありがとうございます、心配していただけて嬉しいです」

 これから、起こりうることを冷静に受け止めている。

「そう、あなたに言ってるのよ」
 香さんが、私に向かって訴えてきた。

 浮かれていないつもり。

 初めて、香さんに“あなた”って呼ばれて嬉しかった。

「それに、二人で診療方針で揉めたり」

「取り越し苦労だ、よくそうしてネガティブ思考ばかり出てくるな」

 おなじ姉弟でも、上と下とじゃ、こうも性格が違うんだ。

「始まる前から、あれこれいちいちそんなことを気にしていたら、なにもできない」

 言葉をかぶせられた香さんが黙った。

 私たちを見守ってくれる気持ちが大きいからこそ、先の先まで見越して心配してくれる。

 香さんにとって院長は、いつまでも『香ちゃん、香ちゃん』って、うしろをくっついてきた、幼いころの保護すべき可愛い弟なんだね。

「いっしょに乗り越えられる相手だから、川瀬を選んだ。実際に、彼女は乗り越えて成長している人だ」

 意志の強い院長の瞳に頷く香さんの顔は、なにかを確信したみたいな微笑みを浮かべて、安心感でいっぱい。

「思慮深いあなたが、ここまで言うんだから準備は整っているのね」

「俺は片付いたから、安心して結婚相手を見つけろよ」

「私にとって結婚は夢でもゴールでもない。愛に恋はしても、夢に恋はしないわ」
 さすが、しっかり者の香さん。

「こういう人にかぎって、ころっと恋に落ちる」

「なんて、思っていたけど海知先生っていいと思わない?」

「ほらな」
 呆れ顔で、私に顔を向けてきた

「優しくて爽やかだし、熱心でオーナーにも評判がいいし、なにより優秀ですもの」

 香さんの舌が、ますます好調に滑らかになってきた。
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