恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
「はい。畳針で口を縫われかけたこともあります」
「海知先生ったら、よく覚えてますね」

「毬、人に対して、常に慈悲深く接しないとダメ。いくらなんでも、人としてひどすぎる」

「ママったら嘘でしょ、本気にしたの? 海知先生の言うことを、まともに信じたらダメ」

「ひでえな、すぐに信じるのは、お母さん譲りなんだな、カブトムシを食った話とかな」

「あれはひどかったです!」
「食べる勢いだったよな」

「笑い事じゃないですよ、母のことは、からかわないでくださいよ」
「わかってるよ」

 海知先生ったら、まあまあ、抑えておさえてみたいに呑気なんだから。

「Arthur、カブトムシ食べたことあるの?」
「お母さん、親子で同じこと聞いてきましたね。カブトムシはですね」

「海知先生!」
「わかってるよ」
 言葉にかぶせて、すぐにやめさせた。これは、すぐにからかうようになるな。

「カブトムシの味、教えてよ」
「お母さん、その話は、あとでゆっくり」
「ちょっと待ってください!」
「冗談だよ。次こそ、口に鉗子を突っ込まれそうだ」

 眉は膨らませて、頬や口は緩ませて笑う顔が、楽しそうで憎めなくて、つい許してしまう。

「ところで海知先生、いつ帰って来るんですか」

「さっき到着したばかりだ。一年次は勉強、二年次以降は勉強と研修、六年次は研修」

 六年もなの。寂しいよ、いつもいてくれたのに。

「なんて顔してんだ、しけた顔すんなよ、金欠病の銭形平次みたいだ。六年なんか、すぐだよ」

「そのあいだの夏休みの帰国は、ないんですか」

「だから、俺はさっき到着したばかりだって言っただろ、もう夏休みの話かよ。勉強や研修で忙しいから、たぶんない」

 日本で獣医をしていたときも、多忙を極めていたけれど、王立ハンガリー獣医学大学で受けるカリキュラムの方が大変そう。

 わりと日本のことは、あっさりしている。

 生まれ故郷のロンドンの方が、日本よりもハンガリーに近いもんね。海知先生の場合、里帰りっていったらロンドンだしね。

「ハンガリーで獣医になったら、日本に戻って来ますか」

「せっかちにもほどがある。授与される獣医学の学位は、EU数十ヶ国で通用する学位だ。選択肢が増えるから、日本に行くかわからない」

 日本のことを行くって言った。海知先生にとって、日本は帰る戻るところって感覚じゃないんだね。

 なんか海知先生が遠く感じた。

 寂しい顔の私の想いを察したみたい。ママが話を切り上げ、口を開いた。

「積もる話は、そのへんにして。Arthur連れてランチに行ってくる。食後は、キャンパス内の案内があるから忙しいのよ、じゃあね」

「ママ、借りるぞ」
「明彦くんによろしくね」
「院長と香さんによろしく」
 あ、あ、あ、切っちゃった。自由人なんだから。二人とも凄く楽しそう。

 院長に教えたいけれど、もうこんな遅いから明日行ったら、すぐに話そう。
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