恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
 昨夜のことは夢じゃないよね? 勉強に疲れて眠っちゃって夢を見たってことはない?

 日本時間が朝の六時。ハンガリーの現地時間は夜の十一時、まだ海知先生起きているかな、勉強中かな。

 迷うなら電話しよう。

 携帯を手に、どきどきしながら呼び出し音を聞く。
「なに?」
 なにって。

「こんばんは。夜分遅くすみません、今いいですか」 

「いいよ、どうした、こんなに朝早く、なにかあったのか」
 いつも真っ先に心配してくれる。

「あの、昨夜の。あっブダペストは、さっきですね。海知先生はブダペストにいらっしゃるんですよね?」  

「そうだよ」

「寝ぼけてたかと思って、確かめたくて電話しました」
 現実ってことがわかった、あともうひとつ確かめないと。

「正直に言えよ、俺の声が聞きたかったって、寂しいって」
「え」
「それで、あと用件は」  

「院長か香さんに、なにか打診されませんでしたか」
「あった」
「三人とも、私に内緒なんですか」
「これはビジネスだ」

 獣医師の引き抜きは、金銭も学閥も複雑に絡んでくるし、第三者が多くなると話が面倒くさくなるし、いろいろとあるもんね。

「海知先生が、ブダペストにいらっしゃるのも報告済みですか」 

「言ったよ」
「いつですか」
「さっき」
「さっき?」
「川瀬にサプライズ仕掛けたあと」

 じゃあ、院長も夜遅いから電話してこないんだ。

 明日、保科に行ったら香さんが凄そう。
 背中に氷を入れられたみたいに、ひやりとした。

「ちょっと待ってて」
 電話の向こうから、聞いたことがない言語と流暢な英語を交えた海知先生の声が聞こえてくる。ハンガリー語かな。

「あと聞きたいことは?」
「大丈夫です」

「ごめん、仲間と勉強会がある」
「これからですか?」

「寝る間も惜しまないと取り残される」
「お疲れ様です」 

「じゃあ、また。なにかあったら、いつでも電話しろよ」
「ありがとうございます」

「今までみたいに、もう川瀬の電話一本で駆けつけてあげられない」

「そんな哀しいこと言わないでくださいよ」

「でも考えてみろ、地球の人口は約六十億。だから、そんな簡単に独りになんかならないよ」
「はい!」

「今日も頑張って仕事してこいよ」
「はい! 頑張ってきます」
 携帯を切った。

 いつも近くにいてくれた海知先生が、遠く海を渡ってしまったのは寂しい。
 でも行動力も学力も、なにもかも尊敬する。

 感傷に浸る間もなく、朝食をモリモリ食べて、保科に向かった。

「おはようございます」

「おはよう、どうした、そんなに慌てて」

「ふだん運動もしないのに、近道だから洋服屋さんのところの歩道橋を渡って来ました」

 鼓動が激しく乱れて、言葉は途切れとぎれに口から出てきた。

「どうして慌てているのか、落ち着いたら話してくれ」

 院長も聞いているんだよね? 何事もなかったように、よくクールな顔で飄々としていられる。
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