恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
「海知先生の話は聞いてますよね」
 椅子を持って来て、院長の隣に座った。

「ああ、知ってる。もっと近くに寄ったらどうだ?」
 片手で軽々と椅子を引き寄せられ、膝を突き合わせた。

「きょ、距離が近いですったら」
「離れない」

 ゆっくりと首を横に振る顔は、笑顔で崩れているのに造形って凄い。
 美形は美形のまま美しいんだ。

 ずっと院長から『距離が近い、離れろ』って言われ続けて慣れていたから変な感じ。

「海外に行くとは、おっしゃっていましたよね」
「ああ、聞いた」

「うちの母がサポートスタッフをしている医科大学に、獣医学大学も併設してるんです。海知先生、そこの留学生ですって」

「それも海知先生から聞いた」

 耳のすぐ横で風船を割られたように、びっくりした。さっきから、冷静に淡々とクールなんだから。

「海知先生ったらサプライズだって、びっくりすることばっかりしてくるんですよ」

「川瀬の反応がいいから、おもしろいんだろう。もうひとり反応がおもしろいのが現れるころだ」

 足早な足音が聞こえてきたと思ったら、飛ぶような速さで風のようにやって来た。

「ほら来た。噂をすればなんとやら」

 笑う院長を尻目に立ち上がり挨拶をすると、すぐに院長が私の右手首を握り座らせた。

「昨夜、明彦から電話があったのよ。川瀬さんは知ってるの?」
「私も昨夜、海知先生から聞きました」

 身ぶり手振りを交えて話す香さんも私と同様、心底驚いたんだ。凄く興奮して話している。

「あなたたちといい海知先生といい、私を驚かせてばっかりなんだから」
「アネキが勝手に驚いている、驚かすつもりはない」

「寿命が百年縮まるわよ」
「いったい何百年、生き抜くつもりだ」

 口角を軽く上げて呆れて笑う院長を、香さんがため息交じりに見ている。

 海知先生に関しては、期待していた引き抜きもダメ。

 香さんは、まんざらでもなさそうだったのに、海の向こうにも行っちゃったから苛立つよね。

「同期を紹介しようか、それとも先輩か。歳下?」
「それは獣医師として? それとも彼氏として?」
「それは当人たち次第だ」

「うちに、明彦や海知先生ぐらい優秀な獣医師を、すぐに入れて」

「俺以上に優秀な獣医師がいるわけがないだろう。無理難題を吹っかけてきたな」

 自信に満ちた顔の中では、からかう口が楽しそうに横に広がる。

「あっという間に時は過ぎるのよ。笑ってないで真面目に考えなさい」
「安心しろ。先のことは、しっかりと考えている」

 院長って、やみくもに香さんを煽って楽しんでいるんじゃなくて、ちゃんと真面目に考えているんだよね。

 院長の安心しろって言葉は、私の安定剤とビタミン剤。香さんもおとなしくなるほど効き目がある。
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