恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
 話が終わって、院長と入院室に上がり、それぞれ患畜の処置と世話で一日が始まった。

「保定いいか」
 世話が終わる頃合いを見ていたみたい。
「はい」
 保定をしながら、一週間前のことを確かめた。

「院長、スクラブ」
 子どもがいたずらに成功したみたいに、にこにこした。

「スクラブが、どうかしたのか」
「あれも負けてくれたんですか」

「いつの話だ?」
 焦れったがらないで、ゆっくりと確かめるように聞いてくる。

「一週間前です。ブルーのスクラブが、かぶった日です」
 院長が合点がいったって、小さくひらめきの声を漏らした。

「あれも、すすんで意図的に負けた、望みはなんだ、叶える」
 素直に認めるのは恋人になったからなのかな。
 そんなにしてまで、望みを叶えてくれようって想ってくれているの?

「以心伝心とか偶然とかなら運命を感じて、嬉しいですが、負けてくれたんですか」

「いや、違う、わざと負けるわけがないだろう。あれは、そうだ運命だ」

 運命といえば運命ね。わかりやすい訂正が、逆に清々しくて吹き出しそうになった。

 運命のいたずらじゃなくて、院長みずから切り開いた運命ということにしておきましょう。

 スクラブの賭けに勝った私の望みは、院長と二人で食事をすること。

「今日の夕食は?」
「適当に済ませる」
「どうしてですか」

「昨夜の勉強会で共有した、最新技術動向や課題解決のレポートが、あと少しで完成するから仕上げる」

「お邪魔でないなら、休憩室のキッチンで夕食を作るので、いっしょにいただきたいです、いいですか」

 控えめな声で、お伺いを立てた。 

「助かる、頭を使うとお腹がすくんだ」
「よかった」
「夕食、楽しみにしている」
「私もです」

 患部を処置しながら、耳だけは私に向けていて、話を聞いて笑みを浮かべた。

「幸せですか」
「ああ」
「幸せ?」
「もちろん」

「もちろんじゃなくて、院長の言葉で聞きたかったんです、幸せって」
「幸せだ」

 患畜を診る真剣な瞳が、ちらっと私に視線を馳せて笑いながら、またすぐに患畜に目を落とした。

 保定が終わり、外来準備で一階に向かう。

 本格的な秋になり、春と同様に毛代わりの時季に入った。 

 毛玉ができて皮膚が不衛生になって、皮膚病で来院する子が増えてくる。

 それと、夏に落ちていた食欲が回復するから、エサのあげすぎで肥満傾向になる子も出てくる時季。

 そのため、定期的に患畜の体重や体型をチェックして、肥満にならないように、オーナーに給餌や散歩の指導をすることも増えてくる。

 昼休みのオペは、猫の去勢が二件。

 午前中にお預かりして、夕方に入院患畜の世話をしているころ、お迎えにいらして帰って行った。
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