恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
 入院室の雑務を終えてから受付に下り、帰宅する香さんに挨拶して見送った。

 診察室は、開院時の明るさとは異なり、殺菌灯が薄く青紫に灯り、寒々とした影を落とす。

 院内は、ナースシューズが響くぐらい静寂に包まれる。

 診察室から待機室に歩を進め、そっと気づかれないように覗くと、レポートが大詰めの段階で、院長が追い込みをかけている。

 ナースシューズの底が鳴らないように、抜き足差し足で休憩室に上がり、着替えを済ませた。

「なににしよう」
 メニューを考え、待機室に顔だけ覗かせ、院長の邪魔にならないように声をかけた。

「お疲れ様です」
「お疲れ様」
「レポートどうですか」
「仕上げの段階だ、あともうひと息」

「ファイトです、夕食のお買い物に行ってきます」
「ありがとう、気をつけて」 

「なにか欲しいものはありませんか」
「川瀬が欲しい」

 真顔で呟き、どきっとした私の顔を確認してから、微笑む院長はイジワル。

「い、行ってきます」
 小さな笑い声を無視して、慌てて顔を引っ込めた。

 通用口のドアを開けると、秋風に耳がひやりとするのが、今は心地いい。
 顔も耳もだし、頭の中から全身まで熱いんだもん。

 スクラブ一枚での外出は肌寒くなって、最近は、羽織っている薄手のカーディガンが重宝しているのに、私の体だけは、夏に逆戻りしたように熱い。

 ついこのあいだまで、厳しい残暑だったのにね。最近すっかり秋らしくなった。

 短い秋の日は、あっという間に暮れる。
 
 買い物が終わったころには、外はすっかり暗く様変わりしていた。

 保科に戻ると待機室の院長に声をかけ、三階の休憩室に上がった。
 準備が整い、さっそく料理開始。

 サラダを作って冷蔵庫で冷やして、お豆腐のすまし汁は一煮立ちを待って、ご飯はレンジで温めた。

 PHSで、院長に夕食ができるから上がって来てくださいと電話した。

 ふたつのフライパンを熱して、卵を割りほぐしながら、しらすや豚肉を用意して、院長の足音が聞こえてきたから二品を作り始めた。

「終わった、いい匂いに誘われた」

 ちらりと振り向くと、首を回して持て余す長い腕を十分に伸ばしながら、院長が入って来た。

「お疲れ様です、完成ですか」
「完成した、お腹がすいた」

 スクラブの裾から手を入れて、お腹を撫でながら訴えるような目で見てくる。

「座ってください、もうできます」

 二品をそれぞれの食器に盛りつけ、すまし汁とご飯をよそり、サラダから順番にテーブルに乗せていった。
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