恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
「川瀬は小さなころから、いつも俺のうしろをくっついて歩いていた。好奇心が旺盛なところも変わっていない」

「院長だって、ずっと変わってません、いつも安心させてくれます。『大丈夫、俺がいるから』って」

 なにかが、ぽっと点火されたように、心の中が温かさに包まれ、微笑みが漏れた。

「私の心に、雨と虹と太陽が、いっぺんに現れたみたいです」
「発想がユニークだ、泣いて笑って忙しい」

 微笑みの余韻を少しずつ消すように、一呼吸置いた院長が、口に出す言葉で自分の考えを確認するように、ゆっくりと呟く。

「あと、もうひとつ、川瀬のお父様が救急で運ばれた総合病院は、親父の病院だ」
 そんなことってある? 嘘でしょ、信じられない。

 生涯、忘れられない衝撃が、脳天から胸に一直線に突き刺さり、貫いていった。

「このあいだ、ふれあい動物園で川瀬が描いた絵を見た瞬間に、すべての出来事がつながり、幼いころの記憶にも確信をもった」

 こめかみから眉間から頭の中から、体中の血液が逆流しているように、どくんどくん脈を打つから熱い。 

 目の前の現実の衝撃が大きすぎて、息もつけないほど驚いた。

「川瀬のお母様は、集中治療室の前の長椅子で泣き崩れ、幼い川瀬は目に涙を溜めながら、唇を噛み締め、一生懸命に健気に耐えていた」

 ついさっきまで、見ていたかのような院長のはっきりとした記憶に、たしかに間違いはない。

 当時、私たちをしっかりと見ていたんだと確信した。

「あのときの、気の強い女の子は川瀬だ」
 たぶんや、きっとなんて言葉を知らないみたいに、きっぱりと言い切った。

「私は、父が死んだから六歳のときに引っ越して、ふれあい動物園に行けなくなりました。その前に院長と再会してたんですか」

「集中治療室の前での再会では、一目見て、ふれあい動物園の女の子だとわかった。だから描いてくれたお返しと、あとは川瀬を元気づけようと、ウサギの絵を描いて渡した」

 再会の喜びが嬉しすぎて、飛び上がって喜んでみたりとか、大声で叫んでみたりとかしてみたくなる。

 反面、狐につままれたような不思議な気持ちで、現実味が感じられない。

「川瀬は俺を覚えていた。ふれあい動物園のときのように走り寄って来て、『お兄ちゃん』って抱きついてきた」

 院長が当時のことを詳しく、事細かに話してくれる。

「抱きついたまま、突き刺さるような哀しみで震えながら、火がついたように泣き出した」
 私が人前で泣いたの?

「無残なほど痛々しく、かわいそうでたまらなくて、いとおしむ感情が胸に残った」
 院長が右手で左胸を握った。
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