恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
「小さな体で、どれだけ心の痛みに耐えていたのか。川瀬の重く深い哀しみの涙と泣き声が胸に響き、心が哀しみでいっぱいになった」

 六歳の私の哀しみを、幼かったころの院長も、いっしょに背負ってくれていたんだ。

「私が唯一、泣けるのは院長だけなんですね」
 院長の腰に手を回して、背中をぎゅっと抱き締めた。

「抱きついてくる姿は、あのころのままだ」
 割れやすい卵を扱うみたいに、そっと頭を抱えてくれた。

「院長のすることの、すべてが私の人生に幸せと喜びを運んでくれてます。そして哀しみを忘れさせてくれます」

「辛いときも幸せなときも、俺はいつも川瀬の隣にいる。あの日から、俺の愛をとっておいた」

 ぎゅっと抱き締められた。
「川瀬だけに。また逢えると信じていたから」

 院長の胸に埋めていた顔を上げると、だんだん院長の顔が近づいてきたから、目を閉じた。

 不思議、どきどきワクワクしながら目を閉じるようになるの。

 柔らかな、夢見心地の雰囲気に包まれていた私たちを現実に戻すように、聞き覚えのある機械音が、静寂の部屋に響いた。

 こんなときに電話の着信が鳴るなんて、どういうタイミングなの。

 そっと目を開くと、とろんとした甘く潤んだ艶やかな院長の細めた瞳が、目の前に広がっているから目が離せなくて、どきどきが止まらなくなってしまった。

 じっと見入っていたら院長が、とろけそうな目を突然ぱっちり開けたから、目と目が合ってしまい、すっと顔ごと下にそらされた。

「し、失礼します」

 落ち着かなくちゃと気は焦り、あわあわしながら、慌ててソファーから手を伸ばし、テーブルの上の携帯画面を見ると、着信はママ。

 頭の中も胸も熱く、どくんどくん脈打ちながら画面をスライドする。

「マ、ママ、あの、その、なに?」
「挨拶もそこそこに慌てて、なにがあったの?」

「な、なんでも、なんでもない、用件は?」
「なにか用事がないと電話したらダメ?」
「そういうわけじゃないけど」

 院長と、あともう少しだったのにタイミングが。あああ、恥ずかしい。

「こんにちは」
 何事もなかったように院長が、隣から顔を出して携帯の画面に映り込んだ。

「明彦くん、こんにちは、どう、仕事は」
「おかげさまで」
「ママ、この絵を見て、見覚えがあるでしょ」
「せっかく明彦くんと話せるのに。どの絵?」

「この絵、ちゃんとよく見て」
 見たと思ったら、瞬時にママが答えた。

「毬が、あっくんに描いてプレゼントした絵。どうして毬が持ってるの?」

「ママ、驚かないでね」
「先に言われちゃうと驚かない、教えて」

「ふれあい動物園のお兄ちゃんの正体がわかったの」
「本名もわからない、あっくんしか情報がないのに、よく見つけたね」

「見つけたんじゃない、再会できたの」
「再会って、あっくんって、どこのどなたなの?」

「院長」
 興味津々だったママのワクワクした顔が、真顔に変わった。

「ママは暇じゃないの、からかわないで」
 期待した分、落胆が大きかったみたいで、ママの声はため息交り。

 肩からは力が抜け、がっかりしていますって体中で主張してくる。

 たまらないみたいに、院長が動いた。
「携帯を貸して」

 私の横から携帯を持った院長が、ママに話そうと必死になっている。
「からかっていません」
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