恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
「もう頭も心も混乱してます。もう無理、保科辞めたい」

 胃が込み上げるような大きなため息に、かぶるように海知先生の語気の強い声が飛んできた。

「辞めたいなら辞めろよ。なんだったら動物看護師を辞めればいい。辞めろ辞めろ、辞めちまえ」

 引き留めないの? 

「腑に落ちない顔して。川瀬の欲しい言葉を言ったつもりだ。辛いんだろ? 無理なんだよな。だったら辞めろよ」

 言い切られた。や、そんなあっさり辞めろって言われても。

 引き留められる前提の愚痴だし。

「辞めたいっていうのは言葉の綾です。プライドがズタズタは、一時的というのかな」

 絵に描いたような空笑いを浮かべたら、海知先生の真顔が変わって、ひらがなで笑われた。

「諦めたんだろ? ようやく自分の限界を悟ったか」

 海知先生が勢いよくビールを飲み干すと、そのまま私の分もおかわりを頼んでくれた。

 よく通る声と店員さんの元気な返事に、店内が活気づく。

「今まで無理とか嫌とか辞めたいとかって、思ったことなかったんですか」

 ずっといっしょに働いてきて、初めて疑問に思ったことをぶつけた。

 私自身は、こんなことを聞かれるような仕事はしてこなかった。

「獣医療に本気で取り組み,その上で挫折した。辞めたかった時期は、自分の無力を思い知らされた」

 いつも前向きな海知先生の言葉が信じられなくて、反射的に体が前のめりに傾く。

「海知先生でもですか」

「もちろんだよ。どんなに成功を収めてきた偉人も経験している。成功者だって挫折してるんだ、川瀬が挫折するのは当然だよ。そう思えば楽だろ」

 野菜の天ぷらをサクサクと、いい音を鳴らしておいしそうに食べて、「食えよ」と勧めてくる。

「そのときに考えた」

 身を乗り出して、最高の笑顔をくれた。そんなにワクワクする考えってなに?

 勧められた天ぷらがおいしくて、サクサク食感を楽しみながら、次の言葉を待った。

「その挫折に負けてしまうか、打ち勝つかの大きな違いは、なんだと思う?」

「なんですか」
 もう一回焦らされた。早く言ってよ。

「プライドを捨てて、一からやり直す。今の自分が、まだまだ未熟だってことをしっかり受け入れられたかどうか」

「未熟ですか」
 私が未熟だって言いたいの? 納得がいかない。

「大病院の小川で勤務していたことがステイタスか」 
「はい」 

 小川で勤務した事実は、たしかに今でも私の誇り。

 転職に悔いはなく、アットホームな保科に来られたのは幸せだけれど、それと小川での地位は別もの。

「小川では川瀬は優秀だったけど、保科さんでは、まだ未知数だ。小川を基準にして、ことあるごとに、いちいち保科さんと比べるなよ?」

 やっちゃった、もう比べている。

 なにかといえば小川は、小川はって思っちゃっている。

「小川でのプライドを捨てて、まっさらな気持ちで保科さんのやり方を吸収したほうがいい。保科さんで小川のやり方をやってるんじゃないのか。自己中心的になってやしないか?」

 テーブルに大きな手のひらを広げて、前屈みで真剣にアドバイスをしてくれる。
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