恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
「初めまして、川瀬 毬(かわせ まり)と申します」
 私の声に反応したみたい。

 すらりとバランスの整った長身が、大きな背中からゆっくりと振り返り、じっと見下ろしてきた。
 細身なのに高さがあるから、圧迫感は山脈みたい。

「よろしく。小川院長のところは動物総合病院だ。人数の多さでカバーできただろうが、うちはそうはいかない。よく肝に命じておくように」

 ここは小川と勝手が違うことぐらい百も承知、言われなくてもわかっていますよ。
 それより開口一番、釘を刺す顔は鼻柱ひとつ動かさない冷静さ。

 じっと合わせてくる目は、にこりともしないのね。思い描いていたイメージとは、まったく違う人だった。

 朗らかで穏やかで優しい、私の頭の中の院長は、一瞬で頭の中から消えた。

 栗みたいな深いブラウンの二重の瞳に、上品そうな高い鼻筋や引き締まっている唇も、すべて芯のある意志の強さが伺える。

 顔は、さっきの香さんとのやり取りからわかる、頑固そう。

「期待に添えられるように、精一杯頑張ります」
 そうよ、私はサービス業という名の天使さんに身も心も捧げているの。

 そして心とは裏腹に、はじける果汁みたいな笑顔を散りばめながら、お辞儀だってできる。

 爪先を見ながら一、二、三と、もう頭を上げていいか。
 まず視線に入ってきた、目の前から話を広げよう。

「ドクターコート、似合いますでしょう」
 どちらに聞くでもなく口を開いたら、院長が眉を膨らませて真横に視線を外した。
 はい、ごめんなさい、お気に召さなかったですね。

 コミュニケーションをはかろうとしたのに、なんて態度なの。
 まずは気持ちよくなってもらうために、褒めることから始めるでしょ。

「ダブルボタンのロング丈が似合うわよ。ドクターコートを着た後ろ姿なんて、うちの父にそっくり」

「喋りすぎだ」
 制する院長に、目もくれない香さんのお喋りが止まらない。

 ご実家は代々病院を経営なさっているそうで、お父様は院長だそう。
 跡継ぎは院長は院長でも、動物病院の院長になったってわけね。

「そうそう、川瀬さんに渡すものがあるの」
 同時に香さんが、私の手を取るから何事かと思ったら、内線専用のPHSを握らされた。
 これこれ、これも最高。

 携帯電話よりも電波が弱くて、医療機器への影響が少ないから、小川でもPHSは重宝した。

「いきなりの御挨拶だったけど、院長のことは気にしないで。気負いしないで楽にね」
 院長の実姉の香さんが上品に微笑む顔が、目鼻立ちのはっきりした美形で院長にそっくり。

「中途半端な時期の求人で大慌てだったけど、即戦力になる川瀬さんが来てくれて助かるわ」
 いえいえ、とんでもないと恐縮しつつ、頑張らないとって思った。

 いずれは大病院の小川から転職して、アットホームな病院で働きたかったから、渡りに船だった。
 妊娠を機に退職された前任の方には感謝。
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