恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
 玄関のドアを開けた瞬間から、子どものように泣き声を上げ、自分に戻れた空間で声と涙の限りを尽くして泣き出した。

 ここなら我慢しなくてもいいんだ。

 シャワーの雨を浴びて、泣き顔も泣き声もかき消され、夕食は無理やりにでも口に入れた。


 結局、食べ終わりは九時過ぎになった。

 ルカの旅立ちに涙も枯れ果て、泣き疲れて哀しみの底に沈む私に呼びかけるように携帯が鳴った。ママだ。

「ママ、こんにちは。どうしたの?」

 涙や哀しみを隠すように元気な声で話しかけた。

「どうしたのって。毬の声が聞きたいから。ただそれだけ」

 今の状況で、そういう言葉は涙腺を刺激するの、ママ。

「たまにはテレビ電話でママに顔を見せて」

「今日はパックしてるから、また今度にして。しわくちゃになっちゃう」

「もうパックしてるの、まだ早い。ママだってしてないのに」

 見え透いた嘘を、からっとした笑い声で流してくれるのはママの思いやり?

 喉とこめかみが痛い。

 優しいママに心配をかけたくない。泣いていたことを悟られたらダメ。

「お昼ごろまで曇っていたけど、今は晴れてとってもきれいよ。ドナウの真珠と呼ばれる、ハンガリーの美しい首都ブダペストを毬にも見せてあげたいわ」

 ママは三年前に海を渡り、王立ハンガリー医学大学で日本人学生のサポートスタッフとして事務局で働いている。

 大学が休みの日には、いつもテレビ電話で景色を見せてくれるから、離れて暮らしていても寂しさが少しだけ減る。

 生い茂る鮮やかな黄緑色の木々を眺めながら、今さっきまでランチをしていたんだって。

 のんびりとした休日を過ごして、ひとり暮らしを満喫しているみたい。

「さっきね、慢性腎不全の老齢猫のルカがね」

 涙をこらえて、大きく喉を鳴らした。

「旅立っちゃった」
 平気を装い、語尾に少しだけ小さな笑い声を交えて言い切った。

「肺炎をおこして容体急変で、あっという間だったから、心の準備もできなかったの。びっくりしちゃった」

 他人事みたいに話し続けた。話し続けていないと泣き出しそうだから。

「ルカのことは、ずっとずっと長いあいだ看てきたから思い入れがあってね。うん」

 自分に言い聞かせるように頷いた。
< 35 / 239 >

この作品をシェア

pagetop