恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
 ケージ内を整えて食器を下げたころ、戻って来た院長が、ゆっくりと口を開いた。

「大恩のオーナーの息子さんから電話がきた」

「やっとですね。大恩を放っておいて、いったい今までなにしてたんですか」

 ようやくきた連絡に声を上げ、詰め寄る。

「距離が近い、離れろ。今、息子さんがうちに車で向かっていらっしゃるから、三十分ほどで到着する」

「車なら、オーナーもいっしょに迎えにいらっしゃればいいのに。朝なら、まだ暑くないし」

 同意を求めるように覗き込むと、院長の顔はなんとなく曇りがち。

 二、三十分後に二階の患畜の処置や世話を終えて、院長と香さんは受付に、私は受付カウンターのオーナー側からは見えない場所に立ち、迎えが来るのを待っていた。

 眩しい朝の日射しを浴びて、院長と同年代くらいの男性が来院。

 初めて見る方だ。

 受付にいる院長と香さんに名乗る、その男性は大恩のオーナーのひとり息子さんだった。

 大恩のことが後回しになって連絡が遅れたことで、大変迷惑をかけて申し訳ないって、きっと電話でも散々謝っているでしょうに、顔を合わせたら開口一番に謝って、深々と頭を下げている。

 院長と香さんも「この度は」とお悔やみの言葉をかけて頭を下げる。

 すべての血液が一気に逆流したように、どくんと一度心臓に痛みが走った。

 どっくんどっくん鼓動が鳴り止まず、胸の痛みで息苦しい。

 息子さんも深々とお辞儀をしてから、「先ほど電話でも、ご説明しましたが」と前置きしたあと、言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。

 息子さんは、出張が多くて遠方でひとり暮らしなので、オーナーになかなか会えない。

 おととい、オーナーと連絡が取れないことを不審に思った息子さんが自宅に駆けつけたら、オーナーが倒れていて救急車を呼んで病院に搬送されたが、間に合わなかったって。

 嘘でしょう、現実味がない。あんなに元気だったのに嘘。

 突然のことで息子さんは信じられないんだと思う。

 当時のオーナーの状況を、冷静に他人事みたいに話している。

 ひとり暮らしだったオーナーが独断で決めて、大恩をわが子に迎え入れた。

 まさか、こんなに早くお別れなんて、オーナーが一番信じられないかもしれない。

 大恩の食欲がない原因は、オーナーが亡くなったからなのかな。

 犬は第六感が備わっている。

 大恩は第六感が働いて、オーナーの死をはっきりと認識していたのかも。

 息子さんは出張が多くて留守にしがちで、おまけにペット飼育禁止のマンション住まい。

 お弔いの席で遺族に、新しい飼い主になれそうな方がいらっしゃるか聞いたけれど、諸々の事情で引き取り手が見つからなかった。

 息子さんは電話をすれば、オーナーから毎回、大恩の話は聞かされていたけれど、会ったことはないって。

 大恩を飼い始めて、まだ半年くらいだもんね。
< 44 / 239 >

この作品をシェア

pagetop