恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
 それでも人情としては、大恩を見捨てるわけにはいかないと、途方に暮れて頭をうなだれる息子さん。

「大恩ちゃんを供血犬として引き取らせてください」

 動物に対して強い信念を持ち、使命感に燃え、ひたむきに動物と向き合う院長の決断は硬かった。

「恐れ入りますが、供血犬とはなんでしょうか」

 初めて聞く言葉に戸惑いを見せる息子さんに、院長は保科のノインとフェーダーの例を挙げて供血犬についての、さまざまなことを説明して理解していただけた。

 息子さんが、これ以上ない安堵の表情を浮かべて震えていた。

 安心と喜びで震えるって、初めて見た。

「ありがとうございます。先生のご恩は一生忘れません」

 オーナーの肩は微かに震えている。

 息子さんが治療費の話をしたので、香さんが明細書をお見せする。

 再診料、治療費、検査費、オペや処置料、入院費用や餌代など出費がかさんだ。

 息子さんは、生まれてから一度も動物を飼ったことがないという。

 その高額な動物医療費に、みるみる顔が青ざめるのが端から見ていてもわかった。

「どうかこちらは、お母様への御香典として気持ちを受け取ってください」

 院長が領収書を折り畳み、封筒に入れた。

 恐縮するオーナーが何度も丁重に断られても、それでもと院長が申し出て、オーナーは院長の気持ちをお受け取りくださった。

「こちらの残金は、毎月五千円ずつお支払いしていただければ結構です」

 と、もう一枚の請求書は色違いの封筒に入れた。

 オーナーは入用がかさむでしょう。院長の計らいに頭を下げている。

 オーナーが迎えに来ない状況や大恩の行く末が気がかりで、今まで気に病む日々を送っていた私の不安を、院長の胸のすく心意気が一瞬で消し去った。

 不器用でまっすぐな院長の器の大きさに、香さんも優しく頷く。

 話が済み、一目だけでも大恩に会いたいという息子さんの希望を院長は快く叶え、そのあとの事務的な手続きを終えた息子さんは保科をあとにした。

 大きな安堵のため息をついた院長が、受付の椅子にゆっくりと腰を沈めた。

「お疲れ様です」
「お疲れ様」

 椅子に深々と身を沈める顔は、充実感でいっぱいみたい。

「今から大恩は、うちの子なんですね」

 オーナーが亡くなったことと、大恩がうちの子になること。

 深い哀しみと嬉しさが絡み合って複雑な気持ち。

「川瀬さんも、ようやく保科の人間になったわね」

 香さんの言葉の意味がわからなくて、宙を見てあれこれ考えてみる。

「今までは小川さんを、うちのうちのと言ってたもの。とうとう保科を、うちと呼ぶようになったわ」

 受付カウンターで書類の整理をしながら、香さんがにっこりと微笑む。

 そういうことか、言われるまで気づかなかった。

 私の顔を仰ぎ見る院長の表情につられて、ふんわり笑みを浮かべる。

 無意識に、うちって呼んだ。

 私のうちは、もう小川じゃなくて保科なんだ。
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