恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
「大恩には、院長も香さんもノインもフェーダーもいるから、ひとりぼっちじゃない。寂しくなくてよかったです」

「あなたもよ。大恩には、あなたもいるわ」

 “大切な人が抜けているじゃないの”みたいに驚いた顔で、香さんが首を傾げた。

 嬉しさいっぱいに返事をした。大恩、私もいるよ。

 大恩はオーナーが話し相手に迎えた子だから、四六時中オーナーと常にいっしょにいて、いつも話しかけられていた密な関係だったと思う。

「診察が途切れたら、大恩をぎゅっと抱き締めてあげます。オーナーが亡くなったことを感じとってるみたいで、ごはんを食べないですし」

「アネキも時間が許すかぎり大恩に触れて、声をかけてあげてくれ。まだ、人が恋しいだろう」

「もちろん。大恩は人間でいえば、まだ十歳ほどの幼い子ですもの。まだまだ甘えたいわよね」

「さっそく二階に行くか」
「はい」
 院長のあとにつき、入院室に上がった。

「大恩、大事な話があるんだ」

 大恩の大きな黒目に涙が浮かんでいるように見える。

 院長がケージから大恩を出したから、大恩をぎゅっと抱き締めた。

「大恩、聞いて。大恩のお母さんね、天国に旅立ったの。今の大恩は、ごはんも食べられないし、凄く哀しくて寂しいよね」

 左右に尻尾を振りながらも、おとなしくしていて聞いている様子。

 お日さまのいい香りの大恩の毛先が鼻腔をくすぐる。

「大恩、今から大恩はうちの子だ。ノインお姉さんのいうことをよく聞いて、フェーダーとは兄弟分として健やかに育つんだ」

「うちには大恩のことが大好きな、みんながいることを忘れないで、ひとりぼっちじゃないってことを。大好きよ、大恩」

 大恩から上体だけを離して、つぶらな瞳を見つめる。

「今日からよろしくね、保科大恩くん」

 にっこり笑うと、顔中が口いっぱいの大恩の幸せそうな笑顔が目に飛び込んできた。

「大恩、笑ってるの。いい子ね」

 大恩と合せ鏡みたいな笑顔で隣を見た。
 それが思ったよりも近すぎた。

 大恩が、じゃれついてたから知らないうちに、院長のそばに寄っていっちゃってたみたい。

「距離が近い、離れろ」

 淡々とした口ぶり。院長になにを言われたって、今は構わない。

「大恩をうちの子にしてくださって、ありがとうございます」

「人の言うことを聞け。距離が近い、離れろ」

 院長の声に反応が気になり、大恩に視線を移した。

「大恩、そんなに哀しい顔をしないで。私まで切なくなっちゃう」

 私の足と足のあいだに入り込み、私に背中を向けて座る大恩。

 首だけ振り返り、私の目をじっと見つめてくる大恩のつぶらな瞳は、私の声に耳を傾けている。

「院長は、あなたに言ったんじゃないの。大丈夫よ、院長のそばに寄っていいの」

「ごめん、大恩。俺たちは喧嘩していない、仲良しだ」

 院長と向かい合わせに座るつぶらな瞳の大恩が、院長の顔を見ている。

「おいで、大好きだよ」

 低く優しい声は、いつもとは違う、今にもとろけそうな甘い声。
 向かい合う院長の顔を見つめてしまった。

 三秒ほど静かな空気が流れるあいだ、お互いに目と目が合ったまま。
 時の止まりが長いこと長いこと。
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