恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
「先生は、モカちゃんを楽にしてあげたいんだ」

 今日の診察だけじゃない。海知先生は、これからのモカのことを考えて、恐怖心を取り除いてあげようとしている。

「男性のなにが怖いのかな、なんだろう。ね、モカちゃん」

 小さな体を強張らせ震えるのは相変わらずだけれど、触れられているのに一瞬だけ唸り声が止んだ。

 意外なモカの行動にオーナーと目と目が合った。
「声?」
 私の呟きにオーナーも同意したように細かく頷く。

『ね、モカちゃん』って言った海知先生の声かもしれない。

「海知先生の語尾が少し高かったから、怖くなかったのかもしれません。モカちゃん、優しい声でも低い声が怖いの?」

 海知先生がモカに声をかけて、そっと胸もとに指先を持っていって撫でてみる。

 偶然ではないか慎重に確認するように、意識的に声のトーンを上げながら、指先でモカに触れる。

 またオーナーと目と目が合う。唸らない。これを何度か繰り返す。

「モカは、男の人の低い声が苦手みたいですね。海知先生、ありがとうございます。モカが男性を苦手な理由がわかってよかったです」

「お役に立ててなによりです。わんちゃんの威嚇の声が低い音だから、それに近い男性の低い声が苦手なのかもしれません」

 なにげなく言った海知先生の言葉に、オーナーと私は大きく反応した。そうか、それかもしれないってね。

 他に男性を苦手な理由が思い当たらない。

「ではモカちゃんの目の様子を診ますね。先に体重と体温測定を」
「はい」
 モカを抱き上げ、診察台に乗せて体重を測定。

 そのあと、座り込んで震えるモカの下半身に、そっと手を添えて立たせて体温測定。カルテに記入する。

 そのあいだに海知先生が、洗浄瓶に入っている精製水とタオルと膿盆をセットした。
「それでは目を洗います」

 立ち上がろうとするオーナーに向ける、きょとんとした顔が、次に私に視線を移してきた。

 察したオーナーが、「モカが甘えるので、私はいつも待合室で待ってるんですよ。よろしくお願いします」と、海知先生に頭を下げた。

「そうだったんですか。大丈夫そうですが、それなら念のために待合室でお待ちください」
「お預かりします」
  二人きりの診察室は懐かしいな。

「俺も」
「言葉に出さないのに、どうしてわかったんですか」
「この光景なら思い出すだろ」
「ですよね」

「川瀬は患部を見やすい角度で保定してくれる。それぞれの獣医の身長や診やすさに合わせて、角度を変えてたよな」

「気づいてくれてたんですか」

「当たり前だろ。やっぱり川瀬のアシストは仕事がやりやすい」

「海知先生と組む仕事は楽しかったなあ」
「今は?」
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