恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
 返事のしるしに頷いた。
「ならいい。モカ、瞼を見せてね」

 いつもより高いトーンで声をかけて、徐々に胸もとや顎の下を撫でながらタイミングを計り、さりげなく瞼をめくり、赤みと腫れを確認してカルテに記入している。

「昨日は少し腫れてましたが、今日はだいぶ目立たなくなりました」

「モカ、楽になっただろ。目を洗うよ。昨日は洗ってもらって気持ちよかっただろ」

 昨日の手順で目の洗浄と点眼を終えた。
 二人で声をかけながらの処置で、モカは昨日よりは多少唸らなくなった。

「少しずつ唸らなくなるはず。恐怖心を引き起こす原因を取り除いたから」

 海知先生は、モカに声をかけながら気をそらして、あっという間にエリザベスカラーを装着して、オーナーを診察室に招き入れた。

「ありがとうございます、海知先生にご迷惑をおかけしませんでしたか」
「昨日より唸らなかったですよ」
 海知先生に変わって、口を開いた。

「エリザベスカラーを装着したので、もう目は擦れないです。エリザベスカラーは一日、二日で慣れますから」

 海知先生はモカを想い、透明のエリザベスカラーを選んだ。

 視野が極端に狭くなるエリザベスカラーは、デリケートで臆病なモカにとっては、恐怖でしかなく大きなストレスになる。

 透明なら少しは横が見やすいっていう、海知先生の優しい気遣い。

「モカちゃん、お利口さんだったね。はい、先生からご褒美だよ」

 そう言って小さな粒のドライをひと粒、モカの口もとに優しく差し出した。

 モカは警戒することなくドライを口にした。よく海知先生がやっている技。

「モカちゃん、いい子だね。次に会うときのご褒美は、なににしようかな」
 指先だけで、そっとモカに触れながら微笑みかける。

 今回の場合は、男の人はおやつをくれる優しい人で唸らなければおいしいのをくれるって、モカが認識するようにって想いから、ご褒美を与えたんだと思う。

 優しくて怖くないって感じてくれるといいな。

 モカの診察が終わった海知先生は、外来が途切れた合間には熱心に入院患畜を診て回っていた。

 待機室に戻って来て、本棚から見つけた英語の論文に澄ました顔で目を落としている。

「引き込まれるほど、夢中になってますね」
「イギリスで、新しい治療の研究報告が発表されたんだよ」

 ふだんは冗談ばかり言っているのに、少しでも空き時間があると勉強を始める。

 獣医師は生涯学習が必要な職業。

 海知先生もご多分に漏れず、基本的に勉強を苦にしないって昔から言っている。
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