恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
「麻酔が覚めるのを見ていますから、少し休憩してください」
「ありがとう」
 院長がスクラブの裾から手を入れて、お腹をさすった。 

「下でなんか食べてる、なにかあったら」
 院長が耳もとに手をやり、PHSを鳴らせとジェスチャー。
「はい」

 私はオペ前に、なんとか昼食をとれたけれど、院長は診察があって食べ損ねちゃったから、そのままオペに入って約一時間、今ようやく昼食になった。

 下でなんか食べてるって言っても、ゆっくりと優雅に昼食とはいかない。

 食べた気もしないで、急かされるように流し込む。ただただ体内にエネルギーを流し込む感じ。

 無事にオペが終わったマリンの心拍、呼吸、体温を測定して、口もとをめくり歯ぐきの色も確認した。チアノーゼ出現なし。

 マリンの体は異常なし。猫は麻酔が覚めるまで三、四時間だから、この見まもりを外来診察の合間にも続ける。

 誰かが階段を上って来る。あの足音は院長。
 ドアが開くと院長よりも、その手に抱かれた子が気になり近づいた。

 タオルに包まれた一匹の子猫は茶トラで、生後四週間くらいかな。
 まだ耳も立っていなくて、顔は赤ちゃん赤ちゃんしている。

 見ると風邪みたいな症状がある。すぐに保温ができる入院室の準備を始めた。

「フェーダーみたい、可愛い茶トラですね。この子は、どうしました?」
 院長のうしろを通ろうとしたら、あれ?

「初めまして、こんにちは」
 少し歩みを止めて屈んで話しかけた。

 こんなに小さな女の子がいたんだ。院長のうしろに、すっぽりと隠れて見えなかった。

「こんにちは」

 挨拶を返してくれたあとに、大きく唾を飲み込み、人と成りを観察するように私の顔をじっと見つめる女の子。

 チェシャムーンみたいな笑顔を浮かべてみたら、にっこりと笑顔を返してくれた。

「可愛いね、なんて可愛い笑顔なの」
 ぽちゃぽちゃした頬に思わず人差し指が伸びて、つつつと軽く触れた。

 黒目がちの瞳を揺らしながら、顔いっぱいの笑顔で嬉しそう。

 それから院長に視線を移して、説明を待った。この子と、この子猫は?

「この子は莉沙ちゃんだ」
「莉沙ちゃんっていうのね。よろしくね」
「はい」

 莉沙ちゃんが恥ずかしそうに頷いた。今さっき出会ったばかりの院長に懐いていて、足にくっついている。

「にゃんこは、どうしたの?」
 しゃがんで、莉沙ちゃんとおなじ目線になって聞いてみた。
< 60 / 239 >

この作品をシェア

pagetop