恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
「主従関係だ。俺の次の序列は川瀬でなくてはならない。一番うしろを歩いていたら、ノインと大恩は川瀬を自分たちよりも下の者としてみる」

 そうなら、そうと早く言ってよ。ようやく腕を解放してくれて階段を上がり始める。

「川瀬の顔が赤いのは熱があるのか。勘違いをしたか」
「勘違いなんかしてません。どきどきなんかしてません」

「俺が勘違いをしたのかと思い、自問自答したんだが。どうしたんだ、急に」
 顔だけ振り向いてきた表情は怪訝そう。まずい、私ったら完全に空回りしている。

「ひとり相撲を取りました。院長の言うことは、わかりました」

「なにか、よくわからない。風邪を引かないように、とにかく早く行こう」

 興味がないんでしょう、深入りして聞いてこない。

「行動の始まりはリーダーからだ。階段を上がるにしても、最初の行動はなにもかも。ノインと大恩はペットではない、供血のための使役犬なんだ。採血のあいだは長時間、動いてはいけない」

 輸血の採血は特殊だもんね、じっとしていなくちゃいけない。

「主従関係を認識させておかないと、川瀬をなめるようだったら、いざ輸血のときに好き勝手に動く可能性がある」

 穏やかで忍耐強くおとなしいノインだから、今までの輸血はスムーズだったって。
 それでも、絶対に動かないとは言い切れないって。

「リーダーが毅然とした態度でなければ、犬は自分が頂点に君臨しようと、リーダーの座を虎視眈々と狙っている。それが犬の習性だ」

「ノインと大恩は供血犬。人間のために仕事をする犬たちですもんね」

「ああ、ペットではない。スムーズに事が進められるように、早めに認識させる必要がある」

 一本、太く強い芯の通ったような背中が語ってくる。

「俺以外が、輸血の準備や事後処理をできないようでは、救急処置に支障をきたす。それでは困る。一刻を争う事態で助かる命も助からない。だから」

「わかりました」

 階段を上がるときも、なにをするにも動くたびに体に密着しているスクラブが、びちゃびちゃ気持ち悪いから早く着替えたい。

「先にシャワーを浴びたほうがいい」
 五階に到着すると、開口一番そう言ってバスルームに案内してくれた。

 このあいだ泊めてもらったから、五階のことは、だいたいわかる。

 着替えはバスタオルとタオルといっしょに、あのときに貸してくれた部屋着を手にしている。

 院長は六階のシャワーを使うって。

「風邪を引かないうちに」
「お借りします」
 下げた頭を上げて、階段を上がりかけた。

 その瞬間、間髪を入れずに耳をつんざく激しい雷鳴が、心臓を突き破る地鳴りのように全身を強く震わせるから、叫び声を上げて思わず院長に抱きついた。
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