恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
 ***

 翌朝、また仲睦まじい二人の小競合いが聞こえてくる。
 今日も楽しそう。平和、平和。

 待機室でマネキンみたいに、じっと止まって聞き入る。

「たまにはデートでも行って来なさいよ」
「そんな相手はいない」
「二十八にもなって」
「年齢は関係ない」

「街中のカップル羨ましくない?」
「人は人、自分は自分。区別ができているから羨ましくない」

「今まで獣医師になるためと動物病院を開業するために、勉強一筋だったから恋愛もしてみたら?」

「愛とは、そんなに重要な問題なのか」

「明彦が情熱や愛情を注ぐ動物みたいに、恋愛も大きな愛を教えてくれる」

 大きな愛か。恋愛って、そんなにいいものなの?

「どんな仕事でも一生懸命やれば、今度はその仕事があなたを愛してくれるって知らない?」

「それなら、どんな人でも一生懸命向き合えば、今度はその人があなたを愛してくれるって、発想に転換しなさい」

「恋愛なんて、しようと思ってできるものじゃない」
 院長、その通り。簡単にできるなら、私だってとっくにしている。

 どうやら、ここの院長は仕事と相思相愛みたい。

「そうして、いつも頭ばかりで考えるんだから」
「思考へ極端に集中すると、感情は抑えられる。思考や理性が届かない領域には興味がない」

「思考回路がガッチガチ」

 感情って抑えられるものなの? 賢い人って凄いね。

「やりたい獣医療に近づきたいという願いを、開業医という形でやっと叶えた。この出逢いは、獣医師として最高に幸せなことだ」

「まるで恋人の話をしてるみたい。目がきらきらしてるわよ。あなたは愛しのきみの動物病院と付き合いなさい」

「お察しいいこと。開業医は、他人の干渉をうけずに自由にできる」
「もう勝手にしなさい」

 終わったかな? 耳をそばだてて、浅い呼吸で身を潜める。
 しばらく待っていたけれど終わりかな。

 目を細めて、目じりに小じわを寄せながら聞き耳を立てるけれど、聞こえてこない。

「立ち聞きか、悪趣味だ」
 背中から聞こえる声に、いたずらがばれた子供みたいに心臓がばくばくと脈打った。

 大きく喉を鳴らして振り向いたら、目と目が合って素っ気なく流すようにして見てくる。

「違うんです。違います」

 顎を突き出し、首の線を伸ばしきれるまで伸ばして、眉をひそめて疑わしそうに凝視している顔を仰ぎ見る。

「わかった。たいした話ではない」
 見透かされた気がして恥ずかしくて、どうにもいたたまれない。

「明彦、ちょっと来て」
 香さんのよく通る声が受付から聞こえてきた。
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