恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
 申し訳なさそうな院長の顔が、少し安心した顔に変わったからよかった。

 そんなに気にすることじゃないのに。一見クールに見えて、意外と気にするのかな。

 入院室に入り、患畜を前にすると院長の目つきが、がらりと変わり戦闘モードに切り替わった。

 本当にタフ。昨日、ここで寝ていたなんて信じられないくらい、顔が凛々しくて隙がない。

 入院室の処置が終わって一階に下り、受付の香さんのところに行った。

「今日の外来予約は、どんな感じですか」
「ここ見てちょうだい」
「池峰ノンネ? またですか」
 すっとんきょうな声を上げてしまった。

「今日はどんな理由で来院か、毎回楽しみになってきました」

「そういうのはダメよ、本当に病気やケガや不慮の事故で、来院することもあるんですからね」
 香さんが冗談っぽい口調で諭す。
「はい、失礼しました」
 軽く頬が緩んで下唇を静かに噛む。

 暑さ厳しい猛暑から、なかなか秋にバトンタッチしてくれない残暑厳しい中、十一時に予約が入っている。
 連れて来られるノンネが心配。

 オーナーが患畜の体を考慮して、連れて来たくなる時間帯は朝と夕方なのに。

 その混む時間帯を避ければ、ゆっくりと診察してもらえるメリットは、あるといえばある。

 十一時に池峰さんが来院、今日は耳掃除だそうです。

 いつもと代わり映えのない問診を済ませて、待機室の院長に報告する。

「いっしょに入っててくれ、保定頼む」
「はい」
 スクラブ姿の大きな背中を追って、後ろを小走りについて行き、診察室に入る。

 池峰さんに、ノンネの様子を質問している院長の脇で、耳掃除の準備をする。

「耳掃除が終わったら、お呼びしますので待合室でお待ちください」
 それが耳掃除のときの対処だから、そう伝えた。

「あの、家でも耳掃除してあげたいから見ててもいいですか」
「ええ、もちろん。けっこうですよ」
 院長の微笑みに、池峰さんが嬉しそうに口もとをほころばす。

 院長は池峰さんの、そんな姿を見ているはずもなく淡々と耳掃除の準備をしている。

「保定お願い」
「はい」
 ノンネを抱っこする私の隣で、院長はわかりやすく丁寧に説明して、池峰さんが理解したか確認しながら、次に進めていく。

「片耳は、やってみますか」
 池峰さんが、院長の言葉に自信なさそうな表情を浮かべる。

「耳掃除のやり方を覚えて、自宅でノンネちゃんに施してあげたいのですよね?」
「はい」
 院長の問いかけに蚊の鳴くような声。

「それなら、いっしょにやり方を覚えましょう。ノンネちゃん、先生のところにおいで」

 院長が私の腕の中で抱かれているノンネを抱いて、池峰さんの腕の中におさめた。

 院長と近い距離で触れ合った池峰さんの頬が、ほんのり赤く染まる。

 獣医師と動物看護師は、こんな触れ合いや体の密着は日常茶飯事。動物のことしか頭にないから、池峰さんの姿が新鮮に目に映る。

 今までの私なら、そう思った。池峰さんみたいな反応を見るのが新鮮だった。
 なのに、どうしちゃったの?

 また院長に、どきどきしちゃうなんておかしいよ。

 私の内側の反応が池峰さん寄りになっている。池峰さんのどきどきが私にも伝わりそう。

 大雨の階段での出来事から、私の鼓動がおかしくなった。
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