彼と彼女の花いちもんめ~意地悪王子の包囲網~
エピローグ
「ん、どれが飲みたいの?」
「買ってくれるんですか?」
「勿論。お好きなのをどうぞ?」
昼休みも終わりに近づいた食堂は、時間をずらして昼食を取りに来た営業部の社員が数名残っているだけだ。
並んだ自動販売機の一つに硬貨を飲み込ませた柿谷さんにお礼を言って、私はピンクグレープフルーツのジュースを選ぶ。
ビタミンはお肌にも良いので、定期的に摂取するようにしていた。
「それ好きだね」
「身体にいいですしね。ありがとうございます。頂きます」
取り出してくれたペットボトルを受け取った私の顔を見下ろして、柿谷さんがあのさぁ、と切り出した。
「そろそろ、その敬語と呼び方、変えない?」
「でも、社内ですし」
「外でもそうだろ」
「・・だってずっと呼んでたから」
「付き合ってひと月だよ?いつまでも会社の関係から抜け出せないなら、俺ももうちょっと強引になるけど、それでもいい?」
「・・・え」
「困るなら、名前で呼んで」
「じゃ、じゃあ、柿谷さんも、会社では私の事、依子って・・呼ばないで」
「そんな顔して言われたら、むしろ呼びたくなるけど?」
にやっと笑った柿谷さんが、顔を近づけて来る。
顔を背けると、こめかみに唇が触れた。
こういうスキンシップを隙を見ては繰り出してくるあたりが物凄く憎い。
恋愛偏差値の高い男の人との恋愛は、初心者の私にはハードルが高すぎる。
たぶん、一生手綱は握れない。
唇へのキスを阻止した事にホッとした私の頬にもキスを落として、してやったりと笑う彼を睨み付ける。
「依子、名前で呼んで」
「・・貴壱さん・・・は、離れて下さいっ」
「ん、今のは可愛い、合格」
真っ赤になった頬を指先で突いて、満足げに頷いた彼が少しだけ距離を取る。
何が基準で判断されているのか分からないが、とりあえず生まれた距離にホッとした。
と、すぐにペットボトルを握っていない方の手を掴まれる。
当たり前のように指の隙間を縫うように絡められた指先が、あやすように手の甲を撫でて来た。
ぞくりと走った甘い感覚に、唇を引き結ぶ。
触れた場所がスイッチとなって、恋しさが増すから困る。
どうせあと5分もしたら、離れなくてはいけない。
だから、この空気はよろしくない。
分かっているのに、握られた手が嬉しいから、困る。
「依子、その顔は駄目。今は止めて、俺が困る」
「知らない!私悪くないですもんっ」
重たい溜息を吐いて柿谷さんが食堂の入り口へ向かう。
すっかりお付き合いしている事が定着してしまったので、ここ最近は誰からも告白されていない。
けれど、その代わり気安く話しかけられる事は増えた。
「おー柿谷ー、お疲れー。なんだよー見せつけんなよー。良いなぁ、可愛い彼女」
「お疲れー。そうだろ。見ても良いけど触んなよ」
「うっわ。お前面倒くさい男になってる!!仁科さん、こいつけっこうしつこいから、嫌になったらいつでも営業部にクレーム入れてねー」
「うっせぇよ。嫌になるとか言うな」
「はは!まあ、仲良くなー」
すれ違う同僚の揶揄い声に、笑顔で答えながら私の手を一度も離す事無くエレベーターホールまで辿り着く。
こういうやり取りにも少しだけ慣れた。
勿論私は一言も言葉を発さず赤くなったり、狼狽えたりするのみだ。
それが、逆に”高嶺の花”の仁科さんらしくなくて、敷居が下がったように見受けられたらしい。
自分がどういう風に見られているか、ちゃんと把握しているつもりだったけれど、これまで遠巻きにされていた一部の女子社員からも、話しかけて貰えるようになった事は、凄く嬉しい。
女友達が一人もいない私にとって、松井さんと今村さん以外に、軽口を叩ける相手は居ないから。
「俺、今日は外回りで戻るのも遅くなるから」
「はい。分かりました」
「部屋で待ってます、とか言ってくれないの?」
「そ、そういうお誘いは、平日は止めて下さいっ」
「あーそう、週末ならいいんだ?」
「え!?あ、そういう意味じゃ・・」
「じゃあ、明日は金曜だし、泊まりにおいで。土曜日は、依子が行きたいって言ってた、パワースポット巡り、付き合うよ」
「ほんとに!?」
「うん。いいよ。熱心に調べてたもんな。神社やらお寺やら」
「えっと・・じゃあ、明日は、お邪魔させてください」
「勿論、そのまま好きなだけ居座ってくれていいよ」
「それは、着替えとか困るし・・」
「・・んー・・ごめん。俺が悪かった。言い方間違えたな。
あのね、俺、自分の部屋に彼女呼ぶの依子が初めてだから」
「え!?嘘」
「こんな事で嘘吐かないよ。ほんと。だから、ちゃんと色々考えた上で話してる。
ずっと居て欲しいって言うのも、本当。
どうしたって仕事はすれ違うし、俺は休日出勤も多いから。
依子を不安にさせたくないし、俺も、あれこれ気を揉んで心配したくない」
「それは・・」
「だから、一緒に暮らして欲しいと思ってる。
これは、俺からの提案だから、ゆっくり考えて?
依子もちゃんと納得できるようにするつもりだし」
「・・軽いお付き合いが楽ちん主義じゃ、なかったんですか・・?」
「軽いお付き合いじゃ靡いてくれない癖に、なに言ってんの。
とっくに俺は一途だよ。
もうフラフラしないから、依子こそ、ちゃんと責任取って、俺の傍に居てよ」
到着したエレベーターに乗り込む私の手を名残惜しそうに離して、彼が手を振る。
あ、離れちゃうんだ、と思ったら、頷いていた。
「私の答えなんて、もうとっくに決まってますよ!」
閉じたエレベーターの箱の中で、彼の顔が見られなかった事を、私は心底残念に思った。
「買ってくれるんですか?」
「勿論。お好きなのをどうぞ?」
昼休みも終わりに近づいた食堂は、時間をずらして昼食を取りに来た営業部の社員が数名残っているだけだ。
並んだ自動販売機の一つに硬貨を飲み込ませた柿谷さんにお礼を言って、私はピンクグレープフルーツのジュースを選ぶ。
ビタミンはお肌にも良いので、定期的に摂取するようにしていた。
「それ好きだね」
「身体にいいですしね。ありがとうございます。頂きます」
取り出してくれたペットボトルを受け取った私の顔を見下ろして、柿谷さんがあのさぁ、と切り出した。
「そろそろ、その敬語と呼び方、変えない?」
「でも、社内ですし」
「外でもそうだろ」
「・・だってずっと呼んでたから」
「付き合ってひと月だよ?いつまでも会社の関係から抜け出せないなら、俺ももうちょっと強引になるけど、それでもいい?」
「・・・え」
「困るなら、名前で呼んで」
「じゃ、じゃあ、柿谷さんも、会社では私の事、依子って・・呼ばないで」
「そんな顔して言われたら、むしろ呼びたくなるけど?」
にやっと笑った柿谷さんが、顔を近づけて来る。
顔を背けると、こめかみに唇が触れた。
こういうスキンシップを隙を見ては繰り出してくるあたりが物凄く憎い。
恋愛偏差値の高い男の人との恋愛は、初心者の私にはハードルが高すぎる。
たぶん、一生手綱は握れない。
唇へのキスを阻止した事にホッとした私の頬にもキスを落として、してやったりと笑う彼を睨み付ける。
「依子、名前で呼んで」
「・・貴壱さん・・・は、離れて下さいっ」
「ん、今のは可愛い、合格」
真っ赤になった頬を指先で突いて、満足げに頷いた彼が少しだけ距離を取る。
何が基準で判断されているのか分からないが、とりあえず生まれた距離にホッとした。
と、すぐにペットボトルを握っていない方の手を掴まれる。
当たり前のように指の隙間を縫うように絡められた指先が、あやすように手の甲を撫でて来た。
ぞくりと走った甘い感覚に、唇を引き結ぶ。
触れた場所がスイッチとなって、恋しさが増すから困る。
どうせあと5分もしたら、離れなくてはいけない。
だから、この空気はよろしくない。
分かっているのに、握られた手が嬉しいから、困る。
「依子、その顔は駄目。今は止めて、俺が困る」
「知らない!私悪くないですもんっ」
重たい溜息を吐いて柿谷さんが食堂の入り口へ向かう。
すっかりお付き合いしている事が定着してしまったので、ここ最近は誰からも告白されていない。
けれど、その代わり気安く話しかけられる事は増えた。
「おー柿谷ー、お疲れー。なんだよー見せつけんなよー。良いなぁ、可愛い彼女」
「お疲れー。そうだろ。見ても良いけど触んなよ」
「うっわ。お前面倒くさい男になってる!!仁科さん、こいつけっこうしつこいから、嫌になったらいつでも営業部にクレーム入れてねー」
「うっせぇよ。嫌になるとか言うな」
「はは!まあ、仲良くなー」
すれ違う同僚の揶揄い声に、笑顔で答えながら私の手を一度も離す事無くエレベーターホールまで辿り着く。
こういうやり取りにも少しだけ慣れた。
勿論私は一言も言葉を発さず赤くなったり、狼狽えたりするのみだ。
それが、逆に”高嶺の花”の仁科さんらしくなくて、敷居が下がったように見受けられたらしい。
自分がどういう風に見られているか、ちゃんと把握しているつもりだったけれど、これまで遠巻きにされていた一部の女子社員からも、話しかけて貰えるようになった事は、凄く嬉しい。
女友達が一人もいない私にとって、松井さんと今村さん以外に、軽口を叩ける相手は居ないから。
「俺、今日は外回りで戻るのも遅くなるから」
「はい。分かりました」
「部屋で待ってます、とか言ってくれないの?」
「そ、そういうお誘いは、平日は止めて下さいっ」
「あーそう、週末ならいいんだ?」
「え!?あ、そういう意味じゃ・・」
「じゃあ、明日は金曜だし、泊まりにおいで。土曜日は、依子が行きたいって言ってた、パワースポット巡り、付き合うよ」
「ほんとに!?」
「うん。いいよ。熱心に調べてたもんな。神社やらお寺やら」
「えっと・・じゃあ、明日は、お邪魔させてください」
「勿論、そのまま好きなだけ居座ってくれていいよ」
「それは、着替えとか困るし・・」
「・・んー・・ごめん。俺が悪かった。言い方間違えたな。
あのね、俺、自分の部屋に彼女呼ぶの依子が初めてだから」
「え!?嘘」
「こんな事で嘘吐かないよ。ほんと。だから、ちゃんと色々考えた上で話してる。
ずっと居て欲しいって言うのも、本当。
どうしたって仕事はすれ違うし、俺は休日出勤も多いから。
依子を不安にさせたくないし、俺も、あれこれ気を揉んで心配したくない」
「それは・・」
「だから、一緒に暮らして欲しいと思ってる。
これは、俺からの提案だから、ゆっくり考えて?
依子もちゃんと納得できるようにするつもりだし」
「・・軽いお付き合いが楽ちん主義じゃ、なかったんですか・・?」
「軽いお付き合いじゃ靡いてくれない癖に、なに言ってんの。
とっくに俺は一途だよ。
もうフラフラしないから、依子こそ、ちゃんと責任取って、俺の傍に居てよ」
到着したエレベーターに乗り込む私の手を名残惜しそうに離して、彼が手を振る。
あ、離れちゃうんだ、と思ったら、頷いていた。
「私の答えなんて、もうとっくに決まってますよ!」
閉じたエレベーターの箱の中で、彼の顔が見られなかった事を、私は心底残念に思った。