君と過ごした冬を、鮮明に憶えていた。
一度愛した人

【1】

「どうぞ。お掛け下さい」
 そう言って招かれたのは、興のある喫茶店。木造建築で出来上がっていて、いかにもレトロな雰囲気だった。
 カウンター席に腰掛けると、ホットココアが出てきた。甘い匂いに、思わず肩の力が抜けてしまいそう。
「...あの」
 何とも言えない気持ちになっていると、隣にいた母さんが口火を切った。
「本当に有り難いんですけど、これは頂けません」
 そうはっきり言って、ホットココアに手を添えた。その時の母さんの横顔は、どこか寂しげに見えた。
「...」
 何か言いたげな顔をしながらも、母さんの目をじっと見つめる、男。
「......」
 嫌な沈黙の中、私はあることに気が付く。
 ___男の手が、震えている。
「...何があったかなんて、僕には知り得ません。けれど、帰るならこれを飲んでから帰って下さい」
 ”これ”とは、何のことかなんてすぐにわかった。ホットココアのことだ。
 力強く言い切っても、手は震えたまま。それを知ってか否か、母さんはホットココアを飲み始めた。
「このココアは、当店自慢のココアです。本来、コーヒーに使われるはずのカカオ豆を使い、サトウキビで風味を調節したものなんです」
 母さんが飲み終えた頃には、男の手の震えは止まっていた。
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